【豊臣兄弟!】直亡き後、小一郎は誰と結ばれた?妻となる慶(吉岡里帆)と側室・光秀尼の生涯 (3/4ページ)

Japaaan

『奈良名所八重桜』によると、はじめは比丘尼(尼僧)として法華寺で修行していたところ、一目惚れした小一郎によって「お持ち帰り」されてしまいました。

一夜をともにしてから帰されたものの、不犯の戒律を破ったことから寺を追い出されてしまいます。

仕方なく、伯母の心慶尼(しんぎょうに)が住職を務める弘文院(興福院)に身を寄せたものの、小一郎の子を懐妊したためここにもいられなくなってしまいます。

行くあてのない光秀尼は縁家の菊岡宗政(きくおか むねまさ)に保護され、娘を出産しました。

この娘の名前は不明わかりませんが、一説にはおきく(大善院)とも言われます。

※娘が二人いる(おきくは次女)説もあるそうです。

いっぽう小一郎はそんな事とも露知らずのんきに……もとい、兄の天下獲りを支えるべく、激務の日々を過ごしていました。

が、自分の娘が生まれたと聞いて、慌てて光秀尼を迎え入れます。還俗させてお藤という名を与え、自分の側室としたのでした。

やがて天正19年(1591年)に小一郎が先立つと、お藤は出家して光秀尼と号して再び弘文院(興福院)に入ります。

異説として、元からお藤だったのが、小一郎の死後に出家した……つまり順番が逆だったと言うのです。

【説1】尼(光秀尼)→還俗(お藤)→尼(再び光秀尼)

【説2】俗人(お藤)→尼(光秀尼)

後に婿の豊臣秀保(妻は実名不詳の長女またはおきく)が亡くなり、大和大納言家は断絶してしまいました。

光秀尼は秀吉から200石の知行地を与えられます(寺に寄進された説もあり)。

元和6年(1620年)には亡くなった伯母・心慶に代わって弘文院(興福院)の住職となり、元和8年(1622年)2月8日に世を去ったのでした。

豊臣秀長の妻まとめ

正室・慈雲院:美濃攻略期に結婚か

側室・光秀尼:大和入り後に結婚

今回は小一郎が迎えた妻たちを紹介して来ました。第8回放送時点で永禄9年(1566年)ですから、慶はもうすぐ登場しそうですね。

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