スピリチュアルに巨額浪費!戦国武将・武田信玄の実像は名将と真逆、隠された“金の亡者”の素顔とは
武田信玄の実像
武田信玄といえば「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言で知られています。
これは人材こそ国の宝だという意味に解釈され、信玄は人徳の武将として語られがちです。
しかし、この言葉は史料的な裏付けが薄く、後世の創作である可能性が高いとされています。史料を読み解くと、信玄の実像はむしろその名言とは逆方向にあるのです。
実は、信玄は戦国最強の武将と恐れられた一方で、慢性的な金欠に悩まされていました。
もともと甲斐国は山が多く、農業生産力が低い土地でした。笛吹川と釜無川はたびたび氾濫し、飢饉も頻発しています。
領土は最盛期にで百万石相当とされますが、それはあくまで理論値で、実際の収穫量は他国より低かったのです。信玄の最大の弱点は、この慢性的な財政難でした。
そのため信玄は、父・信虎を追放した後も、父と同じく増税路線を続けました。
特に有名なのが棟別銭で、これは現代でいえば固定資産税に相当します。甲斐国の棟別銭は全国平均の約二倍で、農作物の出来に関係なく定額で徴収されました。
さらに信玄は、庶民全員に一律で罰金を課す過料銭を繰り返し実施しました。喧嘩などの軽犯罪に科す罰金を、理由なく全員に課すという異常な制度で、史料には「国中が嘆いた」と記されています。
加えて「逃亡者や死者の未払い税は他人が肩代わりせよ」「夜逃げしても追って徴収せよ」という鬼のような取り立て制度まで存在しました。
信玄の軍事力は、こうした重税によって支えられていたのです。これらの内容は、武田の功績を讃える目的で記された『甲陽軍鑑』にも記録されていることから、実際の人民の苦しみはもっと凄まじかった可能性もあります。
スピリチュアル浪費信玄の重税は、軍事や土木工事のためだけではありません。実は彼には、宗教に巨額をつぎ込むという一面がありました。
とくに陰陽師・判兵庫への支出は常軌を逸していました。信玄は判兵庫を十五年にわたって寵愛し、1,500貫文(現代で約15億円)を支払っています。
判兵庫は上杉謙信に呪いをかける護摩祈祷を繰り返しましたが、そもそもこうした祈祷は本来の陰陽師の仕事ではなく、効果も疑わしいものでした。
また、信玄は寺社にも多額の寄進を行い、財政をさらに圧迫しています。甲斐国の庶民が重税に苦しむ一方で、信玄は宗教的な支出を惜しまなかったのです。
こうした支出は、信玄の精神的な不安の裏返しとも考えられます。
先述の通り、甲斐国は自然災害が多く、領国経営は常に危機と隣り合わせでした。
信玄は戦国最強と称されながらも内心では不安を抱えており、宗教に頼らざるを得なかったのかもしれません。
その結果として庶民の負担は増し、信玄の領国は重税によって疲弊していったのだから皮肉な話です。
信玄は天下を取れたのか?さて、信玄は元亀三年、足利義昭の信長討伐令に応じて上洛を開始します。
この後、信玄が長生きしていれば天下を取れたのかという議論は、歴史ファンの間で今も続いていますね。
しかし、信玄の財政状況を見れば、天下を取ったとしてもそれを維持するのは難しかったと考えられます。
甲斐国の生産力は低く、重税によって領民は疲弊していました。宗教への過剰な支出も財政を圧迫し、信玄の統治は決して安定していたとはいえません。
信玄の名言とされる「人は城、人は石垣……」が本当に彼の言葉だったとしても、それは「人民こそ自分を守るための資源」という意味に近かった可能性があります。慈愛ではなく、実利の発想です。
江戸時代以降、信玄は「名君」として祭り上げられ、都合のよい逸話が盛られました。しかし、金銭に関する史料を読み解くと、その実像とイメージは大きくかけ離れていることが分かります。
彼は戦国最強の武将でありながら、財政難に苦しみ、重税によって領国を支えた人物でした。名将の影には、常に金の問題がつきまとっていたのです。
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