『豊臣兄弟!』第9回、あの“謎の武将”は誰だ?斎藤龍興の忠臣・長井隼人正道利の最期【後編】

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『豊臣兄弟!』第9回、あの“謎の武将”は誰だ?斎藤龍興の忠臣・長井隼人正道利の最期【後編】

『豊臣兄弟!』第9回「竹中半兵衛という男」では、タイトル通り竹中半兵衛(演:菅田将暉)を中心に物語が展開しました。

とはいえ、美濃三人衆の斎藤家離反から稲葉山城落城までが描かれ、さらに直(演:白石聖)の父・坂井喜左衛門(演:大倉孝二)を通じて、秀長(演:仲野太賀)が直の死を乗り越えていく姿も感動的でした。

しかしその一方で、どうしても気になって頭から離れない“謎の人物”を見つけてしまったのです。

※【前編】の記事はこちら

『豊臣兄弟!』第9回、あの“謎の武将”は誰だ?斎藤龍興の家老・長井隼人正道利の正体【前編】

【後編】では、その人物と推定される長井隼人正道利と斎藤義龍(演:DAIGO)、そして龍興(演:濱田龍臣)とのその後の関係について迫っていきます。

長井隼人正道利。(イメージ)

不遇だったと考えられる義龍時代

長井隼人佐道利(ながい はやとのすけ みちとし)の生年は、はっきりとは分かっていません。しかし、義龍が1529年(享禄2年)の生まれであることから、道利はおそらくその十数年前には生まれていた可能性が高いと考えられます。

したがって義龍にすれば、兄というより叔父に近い感覚だったのではないでしょうか。そうなると道利は、道三(演:麿赤兒)が15歳前後の頃の子ということになり、系図上で「弟」とされた理由も、このあたりにあるのかもしれません。

斎藤義龍。(Wikipedia)

ともあれ、道利が歴史上で動きを見せるのは、道三と義龍が不仲になった時でした。『備藩国臣古証文』によると、1555年(弘治元年)11月、義龍に異母弟の孫四郎・喜平治の暗殺を提言したのは道利であり、二人を謀殺した首謀者の一人とされています。

しかしその1ヵ月後の12月、義龍の知行状に使者として「長井隼人」の名が見えるのを最後に、その後しばらく史料上から姿を消してしまうのです。

ただし、その半年後に起きた長良川の戦いでは義龍側の武将として道三と戦っていることから、史料に現れなくても、その後も義龍側にいたことは間違いなさそうです。

では、義龍にとって最大の障害となり得た弟二人の殺害に関与し、さらに長良川の戦いでも働いた道利が、なぜ表舞台から消えたのでしょうか。

その背景には、「永禄別伝の乱」と呼ばれる騒動が関係していたと考えられます。この騒動は、京都妙心寺43世で美濃崇福寺住職でもあった禅僧・快川紹喜(かいせん じょうき)と義龍との間で起きた、激しい宗教上の対立でした。

快川紹喜。(Wikipedia)

快川は、武田信玄(演:髙嶋政伸)から篤い崇敬を受けた人物で、甲斐恵林寺の住職も務めた名僧です。武田家滅亡の折には「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉を残し、炎上する恵林寺山門で壮絶な最期を遂げた人物としても知られています。

道利はこの紹喜と親交があり、それゆえ義龍との間に齟齬が生じていた可能性が高いと思われます。ただ、それだけで後斎藤家の中心的人材である道利を退けるとは考えにくいでしょう。おそらくは、義龍があまりにワンマンであったため表に出てこなかったのではと推測されます。

義龍時代、道利は金山城(岐阜県可児市)城主としてその一帯を知行し、美濃東部を押さえて織田信長(演:小栗旬)の侵攻を防いでいました。

金山城跡。(Wikipedia)

また、この雌伏の期間に紹喜を通じて信玄との誼を深めていたとも考えられます。『崇福寺文書』には、信玄が道利に宛てた書状の中に「あなたとは特に親しいのでうれしい」との記述があり、両者の関係の深さをうかがうことができます。

しかし、そのような状況の中、1561年(永禄4年)5月、義龍が33歳という働き盛りの年齢で急死してしまうのです。

龍興の筆頭家老として表舞台へ再登場

父・義龍の急死により、わずか15歳で美濃国主となった斎藤龍興。政権発足当初は、武井夕庵(たけい せきあん)をはじめ、稲葉良通(演:嶋尾康史)、氏家直元(演:河内大和)、安藤守就(演:田中哲司)ら美濃三人衆が合議制で政務を支え、龍興を補佐していました。

しかし、強敵であった義龍死去の報を得た織田信長は、ただちに美濃侵攻を開始します。龍興にとって喫緊の課題は、この信長の侵略への対応でした。

斎藤龍興。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

こうした状況の中、道利は再び頭角を現し、斎藤家の筆頭家老として表舞台に躍り出ます。弱年で軍事・政治の両面において未熟だった龍興にとって、美濃をまとめ上げるには後斎藤家一門の重鎮である道利の力が不可欠だったのでしょう。

また、道利が武田信玄と通じていたことも、大きな意味を持っていたと考えられます。実際、道利は義龍急死の直後から頻発する信長の侵攻を憂慮し、信玄に援軍を要請した記録が残っています。

信玄もこれに応え、「出動してほしいとの知らせを受けたので、信州勢を加勢に派遣する準備を進めている」とし、さらに「今後も即応体制を取るので、加勢や城米輸送についても遠慮なく申し出てほしい」と道利に書状を送っていました。

武田信玄。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

しかし、その後も信長の侵攻は止むことなく、龍興主従は徐々に追い詰められていきます。1565年(永禄8年)、道利は織田家の武将となっていた異母弟・斎藤新五利治に敗れ、中濃地方を失いました。さらに1567年(永禄10年)、稲葉良通・氏家直元・安藤守就ら美濃三人衆が信長に内応し、斎藤家を離れてしまいます。

こうして信長はついに稲葉山城を攻略。同年8月、道利は龍興を扶けて稲葉山城を脱出し、木曽川を船で下って北伊勢の長島へと退きました。

ここで皆さん、思い出してほしいことがあります。『豊臣兄弟!』第9回で描かれた“謎の武将”の腹巻姿です。もし彼が道利であるならば籠城を主張しながらも、龍興救出のため城山を下ることを想定して軽装だったのかもしれません。

そこまで考えて腹巻を着せていたとしたら、『豊臣兄弟!』の制作スタッフには脱帽と言わざるを得ないでしょう。

後斎藤家復興を図るも志半ばで討死

稲葉山城を退去した道利は、龍興とともに長島一向一揆に加わり、信長への抵抗を続けます。さらに堺へ赴いて三好三人衆に味方し、1569年(永禄12年)以降は信長と対立した第15代将軍・足利義昭に仕えました。

道利は龍興とともに反信長勢力として執念ともいうべき活動を続けましたが、結局は志半ばで討死してしまいます。

道利の最期には二つの説があります。

一つは、義昭の命で荒木村重(演:トータス松本)と交戦していた和田惟政の援軍として出陣し、1571年(元亀2年)8月、白井河原の戦い(大阪府茨木市)で討死したという説です。

朝倉義景。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

もう一つは、1573年(天正元年)8月、信長の追撃を受ける朝倉義景(演:鶴見辰吾)の客将として、主君義龍とともに、越前刀根山(福井県敦賀市)で討死したという説です。

このように道利の最期は、その謎多き生涯を象徴するかのように確かなことが分かっていません。

しかし、道利の生涯を思うならば、筆者は後者であってほしいと考えます。越前刀根山での戦死は、反信長包囲網が一度は成立した後の戦いだったからです。

1572年(元亀3年)、武田信玄はついに上洛の兵を率いて甲府を出陣しました。三方ヶ原の戦いで徳川家康(演:松下洸平)を撃破し、信長の本国である尾張・美濃へ迫ります。

この報を知った道利は、「信長滅亡の時来たれり」と奮い立ったのではないでしょうか。しかし、その夢は儚くも消え去ります。信玄は病のため陣中で没したのです。

斎藤龍興。(Wikipedia)

稲葉山落城から6年。後斎藤家の美濃復帰という道利の夢は、ついに叶うことはありませんでした。

しかし裏切りが常の戦国の世にあって、最後まで主君を支え続けたその生き様は、称賛されるべきものではないでしょうか。

そして『豊臣兄弟!』の中で、この謎の人物が再び登場することはあるのでしょうか。道利の生涯を思えば、そうであってほしいと願わずにはいられないのです。

※参考文献
横山住雄著『斎藤道三と義龍・龍興』 戎光祥出版

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