【豊臣兄弟!】謎多き軍師・竹中半兵衛(菅田将暉)の素顔とは?史料『武功夜話』が伝えるリアルな人物像

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【豊臣兄弟!】謎多き軍師・竹中半兵衛(菅田将暉)の素顔とは?史料『武功夜話』が伝えるリアルな人物像

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第8回で初登場した竹中半兵衛重治(たけなかはんべいしげはる/演:菅田将暉)。3月8日放送の第9回「竹中半兵衛という男」では、秀吉を支えた軍師としての姿がいよいよ本格的に描かれました。

戦国時代屈指の天才軍師として知られる半兵衛ですが、実はその生涯を詳しく伝える史料は決して多くなく、その実像には今も多くの謎が残されています

そんな半兵衛を、豊臣秀吉(演:池松壮亮)や豊臣秀長(演:仲野太賀)はもとより、蜂須賀小六正勝(演:高橋努)や前野将右衛門長康(演:渋谷謙人)ら秀吉とともに活躍した武士たちとともに生き生きと描いた書物があります。それが江戸時代に成立した『武功夜話』です。

本稿では、一般に語られる竹中半兵衛像と『武功夜話』に描かれる半兵衛を対比しながら、秀吉を支えた軍師の“人間としての魅力”に迫ってみたいと思います。

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遂に登場した竹中半兵衛。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

一般に語られる「天才軍師」竹中半兵衛

竹中半兵衛といえば、戦国時代を代表する天才軍師として知られています。彼は1544年(天文13年)、美濃国主・斎藤道三(演:麿赤兒)の家臣であり、大御堂城(岐阜県揖斐郡)の城主であった竹中重元(たけなかしげもと)の子として誕生しました。

重元はその後、美濃の土豪・岩手氏を攻略し、菩提山城(岐阜県不破郡)を築いて新たな居城とします。半兵衛は父の死後、その城を継いで菩提山城主となりました。

ちなみに「半兵衛」は通称で、本名は重治(しげはる)といい、「その容貌、婦人の如し」と評されるほど線の細い美男子でありながら、剣術にも優れていたと伝えられています。

浮世絵に描かれた竹中半兵衛(Wikipedia)

さらに若くして諸葛孔明ゆかりの兵法書を読破するなど学問にも通じ、知略に優れていたとされています。美濃となった斎藤龍興(演:濱田龍臣)に仕えながら、後には秀吉に臣従し、その軍師として活躍した人物として語られることが多いのです。

半兵衛の名をとりわけ有名にしたのが、わずかな手勢で龍興のいる稲葉山城を奪ったとされる「稲葉山城乗っ取り」の逸話でしょう。このとき織田信長(演:小栗旬)は半兵衛に城を譲るよう求めますが、半兵衛はそれに応じず龍興に城を返却し、自らは隠棲したと伝わります。

しかし、この出来事によって半兵衛の名は一躍広まり、後世には「戦国随一の知将」として語り継がれるようになりました。

半兵衛がわずかな手勢で乗っ取った稲葉山城(Wikipedia)

秀吉の家臣となった半兵衛は、その軍師として目覚ましい活躍を見せますが、1579年(天正7年)、中国攻略の途中で病に倒れ、36歳の若さでこの世を去りました。

以上が、一般に語られている竹中半兵衛重治の生涯です。

ところが実際には、半兵衛の生涯を詳しく伝える確かな史料は意外なほど少なく、その人物像の多くは後世の軍記物や伝承によって形づくられている部分も少なくありません。

ただ一つ言えることは、諸資料から見る限り、半兵衛の信念は「戦国乱世を終わらせるために戦う」というものであったらしいことです。そのために半兵衛は、「武士ならば戦場で死にたい」と語り、最期まで軍師としての役目を全うしました。

そのような半兵衛の生き様を、まさに生き生きと描いたのが『武功夜話』なのです。

『武功夜話』とはどのような史料なのか

『武功夜話』は、尾張の前野家(前野将右衛門の末裔)に伝わったとされる軍記物語で、織田信長から豊臣秀吉の時代にかけての出来事を描いた書物です。この書物は、愛知県江南市の吉田家(旧前野家)に伝わった家伝記であり、その内容は信長や秀吉に仕えた前野家一族の古記録とされています。

前野将右衛門長康。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

同書には、豊臣秀吉やその弟・秀長をはじめ、蜂須賀小六や前野将右衛門など、後に秀吉を支える武士たちの姿が数多く記されています。

もっとも、この書物については史料としての評価をめぐり長く議論が続いてきました。近年まで「後世に作られた偽書ではないか」とする見方も強かったのです。

しかし一方で、秀吉周辺の人物、とりわけ羽柴一族の初期の活動を伝える史料が極めて少ないことから、『武功夜話』を完全に否定するのではなく、参考史料として注目する研究者も多くいます。

つまり同書は、荒唐無稽な部分も少なくないものの、信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考史料として一定の価値を持つと見る研究者も現れているのです。

筆者もまた、秀吉や秀長に関する確かな史料が少ないことを考えると、『武功夜話』は彼らの活動を考えるうえで参考史料としてもっと活用されるべきではないかと考えています。

実際、秀吉が一次史料に初めて登場するのは、1565年(永禄8年)11月のことです。織田信長が松倉城主・坪内利定に知行を安堵した書状に「木下藤吉郎秀吉」として副署したのが、その初見となります。これは、秀吉が信長に仕官したと考えられる時期から約11年後、29歳の時の出来事でした。

また、秀長が史料に初めて登場するのはさらに遅く、1574年(天正2年)7月の『信長公記』で、信長の馬廻衆の一人として記されています。このとき秀長は、35歳になっていました。

このように、豊臣兄弟の10代から20代については、本当に確かな史料が不足しているのです。

『武功夜話』が描く竹中半兵衛という人間

『武功夜話』の最大の魅力は、そこに登場する戦国武将たちを単なる英雄としてではなく、「生きた人間」として描いている点にあります。

たとえば『信長公記』や『太閤記』などは、信長や秀吉の生涯を大きな歴史の流れの中で描くため、どうしても彼らを英雄として際立たせる傾向があります。

半兵衛についても、『太閤記』(巻第十八)にはその列伝がありますが、かなり超人的な人物として描かれています。

それに対して『武功夜話』では、秀吉やその周囲の武士たちが、時に迷い、語り合い、知恵を出し合う姿が細やかに描かれています。秀吉はもちろん、秀長、小六、将右衛門らの動静や苦労が具体的に語られているのです。

そこに描かれる彼らは、後世に語られるような華々しい英雄というよりも、まずは乱世を生き抜こうとする「人間」として登場します。その描写は、読み手に強いリアリティを感じさせます。

もちろん、半兵衛も例外ではありません。『武功夜話』の半兵衛は、神がかり的な天才軍師というより、状況を冷静に見極め、静かに策を巡らす現実的な知将として描かれています。

例えば、秀吉が半兵衛を軍師として招いた際、秀吉は「日頃の巧舌を閉し、半兵衛に心を遣いなされ候」と語り、自らの志を誠意をもって伝えたと記されています。

すなわち、自分が蜂須賀小六や前野将右衛門、弟の秀長らと盟友の契りを結び信長の麾下にあるのは、栄華富貴を求めるためではなく、「百姓土民を塗炭の苦しみから救い、畏れ多くも主上を安んじるため」であるというのです。

最初は黙して聞いていた半兵衛は、その志に共感し、「世俗を離れて達観を気取っていた自分は、この天下の騒乱を静観していただけだった」と気づき、秀吉に力を貸す決意を固めたと記されています。

いかがでしょうか。『武功夜話』に描かれた秀吉一党と半兵衛のやり取りには、英雄伝説のような誇張よりも、むしろ人間同士の率直な言葉があふれています。

英雄伝説の中の超人的な半兵衛ではなく、戦国の現実を生きた一人の武士としての半兵衛。その姿こそが、『武功夜話』の大きな魅力と言えるでしょう。

史料としての評価をめぐって議論のある『武功夜話』ですが、そこに描かれた戦国武士たちの姿には、他の史料にはあまりない生々しいリアリティがあります。

竹中半兵衛もまた、後世に作られた英雄像だけでは語り尽くせない人物だったのかもしれません。その人間的な魅力を想像させてくれる点こそ、『武功夜話』という書物の面白さなのではないでしょうか。

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