コスプレ参加、女性同士のバトル…豊臣秀吉が催した戦国最大級の「ド派手なお花見」が規格外すぎる!
3月も半分以上が過ぎ、メディアでも「桜の開花予想」の情報を頻繁に見かけるようになりました。
いよいよ「お花見」の季節到来ですね。お花見の歴史は古く、奈良時代は梅や萩を愛で、平安時代に入り梅から桜になり、貴族階級の人々が花の下で宴を開き、詩を読んで楽しむのが主流だったそうです。
鎌倉・室町時代には、武士階級にも広まり、現代のように花見が庶民の娯楽となったのは江戸時代になってから。
そして、「日本一のお花見」といえば、豊臣秀吉が催した『吉野山の花見』と『醍醐の花見』。
天下統一を実現した秀吉は、自らの力を世に示す意味も込めて、大きな花見の宴を二度も開催したのでした。
たくさんのゲストを招き、コスプレをしたり、女性たちは豪華な衣装を「お色直し」したりなど、派手好きの秀吉らしいエンタメ性の高いものだったそうです。どのような宴だったのでしょうか。
総勢5000人が参加した大コスプレ大会『吉野の花見』
一度目のお花見は、文禄3年(1594)に催された『吉野山の花見』。
吉野山は、奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある尾根続きの山稜の総称であり、金峯山寺を中心とした社寺が点在しています。地域ごとに、下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれ、古くから桜の名所として有名です。
そこで、秀吉が催した花見会は、武将・公家・茶人・連歌師など、総勢5000人ほどのゲストを招いた大規模なものでした。徳川家康はもちろん、宇喜多秀家や伊達政宗など名だたる武将も集まりました。
このときは、1300年以上前の天武天皇の時代に役行者が創建した吉水院(吉水神社)に本陣を置き、5日間に渡り桜を愛でつつ歌・茶・能などを楽しむ花見の会が開かれました。
ところが、最初の3日間は雨が降り止みませんでした。江戸時代の史料『豊公看桜記』によると、秀吉が同行していた僧・道澄に相談すると「ここは肉食をしない土地。それを止めなかったためでしょう」と言われたそうです。
そこで、秀吉は「肉を禁じよう。それでも雨が止まなければ、寺社を焼いて山を降りる」と、側近の木下吉隆に宣言。(実はその時、笑いながら言っていたので本気ではなかったという説も)
吉隆は、「吉野の神の住まいをきれいにするのだ」と指示を出し、部下を集めて掃除をしたとか。また、『吉野町史』によると、僧侶たちが慌てて晴天祈願をして、翌日は見事に晴れ、桜は満開になったそうです。
利家が政宗が秀吉が参加した大笑いのお芝居
『吉野山の花見』のコンセプトは、各自コスプレをして参加することでした。そして、コスプレ姿でお芝居をしたのです。
伊達政宗の言行録『木村宇右衛門覚書』によると、伊達政宗とその家臣はひのき笠に鈴懸の衣を身につけ、金剛杖を持つという大峰山の山伏の扮装。前田利家は巻物売り、公家衆は薫物売り、秀吉は赤い服に唐人笠、金鞘張りの刀、唐団扇を持つという非常に派手な扮装でした。
お芝居の舞台は「とある茶屋」。徳川家康、前田利家、今出川晴季らがお茶を飲みながら休憩中。そこに、伊達政宗の山伏一行が通りがかります。
茶屋の下男を語る秀吉が「お立ち寄りください」と誘うと、山伏らはずうずうしく「茶ではなく酒を所望する!」といいました。
さらに、誰も頼んでいないのに、勝手に腰に付けていた法螺貝を吹いてお布施を要求するというコミカルなストーリー。
このコスプレ芝居はみなに大ウケで、「桜の花の下では身分に関係なく皆無礼講」な宴会として盛り上がったそうです。
この場面、ぜひ大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも見てみたいもの。けれど、秀長が亡くなったのは1591年。制作サイドによると「ストーリーの中で秀長が登場しない回はない」そう。『吉野山の花見』は秀長が亡くなってから3年後くらいなので、登場しないのでしょうか。
それとも、秀長がまだ存命中に行ったことにするのでしょうか。
血の流れる戦闘や騙し騙されの戦国時代。いっとき、華やかな薄ピンクの桜を背景に、戦国武将たちが無礼講で花見を楽しむ平和なシーンも観てみたいものです。
700本の桜を移植した『醍醐の花見』
秀吉が2度目に主催したのが『醍醐の花見』。慶長3年3月15日(1598年4月20日)に行われました。
場所は、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓です。北野大茶湯(※)と双璧を成す、秀吉一世一代の催し物として知られています。
この花見では、畿内から700本もの桜を醍醐寺に移植しました。宴には正室の北政所、側室の淀殿や三の丸、息子・秀頼、女房衆ほか約1,300人余りが参加したそうです。
このときは、ほとんどが女性ばかりで、男性の参加者は秀吉、息子の秀頼、前田利家の3人だったそうです。
花見の後、同年の夏に亡くなった秀吉。天下人の文化と絢爛を象徴する宴として今も語り継がれています。。
※北野大茶湯:天正15年10月1日(1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催した大規模な茶会のこと。
花見の宴で淀殿と松の丸殿がばちばちのバトル
この『醍醐の花見』では、ばちばちの女同士のバトルが繰り広げられました。
宴の席で、正室である北政所の次に盃を受ける順番をめぐり、側室の淀殿と松の丸殿が争ったのです。
淀殿は、豊臣家の後継である秀頼を産んだことで北政所に迫るほどの権勢を持っていました。そのため、北政所の次は「当然、私でしょ」と思っていたのです。
かたや松の丸殿は「自分は名門・京極家の出身。淀殿の父は浅井長政。その浅井家はかつて京極家に仕えていたんです。つまり、淀殿よりも、家柄が主家筋である自分の方が先でしょう」と主張します。
お互いに絶対に譲れない争い。これは一度始まってしまったら、引きたくないし負けたくないでしょう。このプライドをかけたバトルを収めたのは、前田利家の正室・まつだったのです。
「歳の順からいえばこの私でしょ!」と二人の間に割って入り、盃を受け取り収めたとか。どちらの顔も潰すことのない上手い仲裁ですね。
まつは北政所とはまだ若いときからの付き合い。淀殿も松の丸殿も文句は言えなかったでしょう。(後世にできた創作エピソードという説もあります)。この場面も、ドラマで観てみたいものです。
女性だけで桜に包まれ美しい思い出を残したかったのか
さて、この花見では、秀吉の側室や大名の奥方たちは、なんと二度のお色直しを命じられたそう。合計すると花見の会で新調した着物は一人三着。この衣装代だけでも、現代の金額にすると40億円ほどになるそう。
まさに秀吉の最期を飾る、贅を尽くした宴となったのですね。
晩年は「狂気の沙汰」といわれる行動で有名な秀吉。もしかしたら、死期を悟った秀吉が、残された正室、側室、息子などにせめて美しい最期の思い出を残したくて桜に抱かれた贅沢な宴を催したのかもしれません。
男性の武将や家臣などを招くとどうしても政治色が強くなるので、あくまでも華麗な女性たちとの思い出作りをしたかったのかも。
現在でも、醍醐寺には『醍醐の花見』ゆかりの桜で、樹齢170年の「太閤しだれ桜」があります。今年も醍醐寺ではイベント「醍醐の花見」(3月27日(金)〜4月12日(日))を行い、その間は夜桜のライトアップや夜桜茶席、数量限定の桜の御朱印などいろいろな催し物を行うそうです。
アートとテクノロジーが融合した華やかな夜桜の花見。もし秀吉が過去からタイムリープして来たらびっくりするでしょう。華やかで派手好きだった人だけに、驚きながらも興味津々で喜ぶかもしれませんね。
参考:
京都 醍醐寺 公式サイト
豊臣秀吉研究 角川選書クラシックス 桑田 忠親
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan