【豊臣兄弟!】共闘から決裂へ…織田信長と戦い続けた足利義昭(尾上右近)、執念の生涯[前編]
室町幕府最後の将軍・足利義昭(演:尾上右近)。彼は、一般には「織田信長に擁立された傀儡(かいらい)」として語られることの多い人物です。しかし、その実像は決して「傀儡」一言では片づけられません。
本稿では[前編][後編]の2回に分けて、足利義昭の実像を紐解いていきます。
[前編]では、兄・義輝の死後、還俗して将軍候補となった義昭が、各地を流浪しながら機会をうかがい、ついに信長の力を得て将軍の座に就く過程。そして、武田信玄の西上を契機に、信長と義昭が「共闘」から「決裂」へと至る過程を追いながら、真の義昭像に迫ります。
義昭と信長、ともに助け合った共闘の関係
NHK大河『豊臣兄弟!』第10回「信長上洛」では、足利義昭と明智光秀(演:要潤)が登場しました。
『豊臣兄弟!』織田信長上洛で何が動いた?お市・家康・義昭…第10回の重要ポイントを解説義昭は、前将軍である兄・義輝が三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)に殺害された後、その後継として擁立された人物です。しかしこの時点では、まだ将軍候補に過ぎず、有力大名の支援を求めて各地を流浪する身でした。
明智光秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
そのため、ドラマで描かれたように、光秀の家臣に身をやつして岐阜を訪れたとしても、あながち史実から大きく逸脱しているとは言えないでしょう。
余談ですが、『豊臣兄弟!』での織田信長(演:小栗旬)は、やたらと太刀を抜きます。ついには、竹中半兵衛(演:菅田将暉)の進言を受け、家臣に化けていた義昭にまで刃を向ける始末です。その影響か、お市(演:宮崎あおい)までもが庭先で大刀を振り回す場面がありました。信長は戦国大名の中でも特に刀好きで知られているため、その個性を強調した演出なのでしょうね。
お市の方。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
義昭は、信長の支援なくして将軍にはなれなかった人物です。1568年(永禄11年)、信長の軍事力を背景に上洛を果たし、第15代将軍に就任します。そのようなことからしばらくは、両者の関係は極めて良好でした。
翌1569年(永禄12年)、織田軍の留守を突いて、阿波へ退いていた三好三人衆が約1万の兵で京都を窺います(本圀寺の変)。このとき義昭は、光秀ら幕臣とわずかな兵でこれを防ぎ、さらに細川藤孝(演:亀田佳明)らが援軍として駆けつけたことで、三好勢は撤退を余儀なくされました。
この一件は、信長にとっても予想外だった可能性があります。義昭は単なる「担がれた将軍」ではなく、一定の軍事的力量を持つ存在であることを示したからです。
この勝利により、義昭・信長連合は諸大名の支持を集め、その軍勢は8万に膨れ上がったとも伝えられます。
1570年(元亀元年)、信長は朝倉義景(演:鶴見辰吾)討伐のため越前へ出兵しますが、その最中に義弟である浅井長政(演:中島歩)がまさかの謀反。
信長は、羽柴秀吉(演:池松壮亮)と秀長(演:仲野太賀)に殿(しんがり)を命じ、京都へ帰還します。その撤退戦ののち、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破りますが、織田軍の損害も大きく、信長は岐阜へ退き義昭は京都に残りました。
やがて、このような動きを見ていた本願寺・延暦寺・浅井・朝倉・三好三人衆らが結束し、「信長包囲網」が形成されます。これに対し信長は、各勢力と個別に和睦を結ぶことで、巧みにこの危機を乗り切りました。
この過程において重要なのが、義昭の存在です。彼は将軍としての権威を用い、敵対勢力との仲介役を務め、和睦成立の土壌を整えました。つまりこの時期、義昭は「政治的権威」、信長は「軍事力」を担い、互いの弱点を補完し合う関係にあったのです。
信玄の西上作戦でついに信長と決別するしかし、その関係にも終わりが訪れます。1572年(元亀3年)10月、武田信玄(演:高嶋政伸)が甲府を発し、西上作戦を開始したのです。
当時、織田家と武田家は友好関係にあり、信長の嫡男・信忠と信玄の娘・松姫の婚約も成立していました。それにもかかわらず、なぜ信玄は信長と対決する道を選んだのでしょうか。
大きな要因として考えられるのが、1571年(元亀2年)の比叡山焼き討ちです。天台座主・覚恕法親王は甲斐へ逃れ、信玄に比叡山の再興を訴えました。信玄は信長のこの行為を「天魔の所業」と激しく非難しています。
さらに、信長と同盟関係の徳川家康(演:松下洸平)との軍事的対立、そして浅井・朝倉・本願寺といった反信長勢力の要請も重なり、信玄は挙兵に踏み切ったとみても間違いないでしょう。
このとき、義昭がどこまで反信長の動きに暗躍していたかは議論の余地があります。むしろ彼は、信長の実力を誰よりも理解していたからこそ、慎重だったとも考えられるのです。
しかし、情勢は一変します。三方ヶ原の戦いで、信玄は家康を圧倒的に打ち破りました。この勝利は、反信長勢力に大きな希望を与え、同時に義昭の認識を変えたと考えられます。
ここに至り、義昭はついに信長と決別する決意を固めたのでしょう。しばしば「義昭は信長の傀儡だった」と言われます。しかし実態はそうではありません。両者はあくまで相互依存の関係であり、その均衡が崩れたとき、協力関係もまた終わりを迎えたのです。
義昭は諸大名に信長討伐を呼びかけます。これに対し信長は、義昭の要求をすべて受け入れるという異例の譲歩を示しました。これは、当時の信長がいかに追い詰められていたかを物語っています。
しかし同時に、信長は「十七条の異見書」を公表し、義昭の非を世に訴えました。そこには、「自分はこんなにも忠誠を尽くしたにもかかわらず、義昭はそれを顧みなかった」という主張が記されています。
これは、将軍と対立してもなお自分は「逆臣ではない」と世間に示すための政治的宣伝でもありました。
こうして、義昭と信長の決裂は決定的なものとなっていったのです。
それでは[前編]はここまで。[後編]では京都を追われた足利義昭をお話しします。お楽しみに……。
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山田康弘著『足利将軍家たちの戦国乱世』中央新書
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