【豊臣兄弟!】共闘から決裂へ…織田信長と戦い続けた足利義昭(尾上右近)、執念の生涯[後編]
織田信長(演:小栗旬)との対決に敗れ、京都を追われた足利義昭(演:尾上右近)。この時、室町幕府は滅亡した、そう理解されることが一般的です。
しかし、義昭は将軍であることをやめてはいませんでした。毛利輝元のもとへと移った義昭は、再び信長打倒の旗を掲げ、上杉謙信(演:工藤潤矢)らを巻き込んだ新たな信長包囲網を築き上げます。敗れてもなお立ち上がるその姿は、「傀儡」とは程遠いものでした。
やがて本能寺の変を経て時代は大きく動き、義昭はついに自ら将軍職を手放します。
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【豊臣兄弟!】共闘から決裂へ…織田信長と戦い続けた足利義昭(尾上右近)、執念の生涯[前編][後編]では、「最後まで将軍であろうとした男」の執念の生涯を追います。
信長に敗れ追放されるも将軍は辞さず
織田信長との対決を選んだ義昭は、越前国主の朝倉義景(演:鶴見辰吾)に支援を要請します。武田信玄(演:高嶋政伸)が三河を蹂躙し、尾張・美濃に侵入するまで、京都を支えるためにはどうしても朝倉勢の力が必要だったのです。
しかし、義景は本国の防衛を理由にして居城である一乗谷から動きません。そのうえ、最も頼みとした武田勢の動きが突然止まります。
信玄は、三河の野田城を落としたものの、この直後から病が悪化したのです。そして、1573年(元亀4年)4月12日、甲斐へ帰還する途中で死去。ここに信長包囲網は大きく揺らぎました。
同年7月、二条御所では支えきれないと判断した義昭は、京都郊外・槇島城に籠り、信長に対して挙兵します。しかし織田軍の圧倒的兵力の前に抗しきれず、ついに降伏しました。
義昭は嫡子・義尋を人質として差し出し、命を許されて京都を退去します。これが一般に「室町幕府滅亡」とされる瞬間です。しかし、ここで見逃してはならない点があります。義昭は、将軍職を解かれてはいなかったのです。
むしろ信長は、和解と帰京を求めて羽柴秀吉(演:池松壮亮)を使者として派遣しています。しかし、義昭サイドが信長に相互人質を要求したため交渉は決別。この申し出に激怒した秀吉が「公方様は行方不明になったと報告するので、どちらへでもお行きになるがよい」という捨て台詞を残して、交渉の席を蹴って退出してしまったと伝えられます。
羽柴秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
秀吉の行動の真意はさておき、このことは信長にとって、まだ義昭に政治的に利用価値があること。また、彼を放逐することは危険だと考えていたことを示しているといえます。そして、信長のこの心配は、約2年半後に現実となってしまうのです。
中国を治める毛利輝元を頼り室町幕府を存続京都を追われた義昭は紀州由良へ移り、各地の大名に御教書を発して挙兵を促します。しかし、この時点では応じる者はほとんどいませんでした。
一方の信長は、朝倉義景、浅井長政(演:中島歩)を滅ぼし、さらに長篠の戦いで武田勝頼を撃破。畿内から東海にかけて圧倒的な勢力を築き上げるとともに、北陸の上杉謙信や中国の毛利輝元などの領国をも及ぼしかねない状況となりました。
そのような中、義昭は再び動きます。紀州を離れ、備後・鞆へと移動すると、中国地方の雄・毛利輝元に接近。ここで信長討伐を呼びかけたのです。
毛利は当初、織田と協調関係にありましたが、勢力を急拡大させる信長に強い危機感を抱いていました。輝元は、畿内制圧後の信長が、やがて毛利の勢力圏に侵入してくるのは避けられないと考えたのです。そして、毛利は義昭を奉じて反信長に体制を切り替えます。
義昭は鞆に拠点を置き、「鞆幕府」とも呼ばれる政権を維持。さらに輝元を副将軍に任じ、再び信長に対する全国規模の包囲網の構築を図ります。毛利と同様に信長に危機感をもつ諸大名に織田討伐の御教書を送ったのです。
これに呼応したのが、上杉謙信です。謙信もまた、織田の勢力が北陸から北に延びつつあることに警戒心を抱いていました。
こうして毛利・上杉・武田・本願寺らが結集し、再び信長包囲網が形成されます。義昭は京都を追われてから、わずか数年で反信長勢力の中心に立ったのです。
第二次包囲網の崩壊と追いつめられる義昭毛利勢は1576年(天正4年)7月、織田軍に包囲された石山本願寺救援のために水軍を送り、木津川河口に陣を敷く織田水軍を撃破し、兵糧搬入に成功します。上杉勢も1577年(天正5)年9月に、手取川の戦いで柴田勝家(演:山口馬木也)率いる織田軍を破りました。
しかし、この第二次包囲網による同盟軍の優勢は長くは続きませんでした。彼らの最大の弱点は、各勢力の地理的分断にありました。連携が困難なまま、信長は各個の撃破を進めていきます。
1578年(天正6)年3月、義昭が最も期待した上杉謙信が急死。さらに1580年(天正8)年4月には、頑強に抵抗した石山本願寺も降伏します。
そして、1580年(天正8年)4月、武田勝頼も滅亡すると信長包囲網は完全に崩壊。この勢いのままに、羽柴秀吉を司令官とする織田勢は、備中に侵攻を開始、備中の諸城は落城及び調略により次々と織田方に降伏していきます。
信長は、毛利討伐の手柄を主君・信長に譲るといういかにも秀吉らしい要請に応え、自らが中国戦線に乗り出すことを決定。ついに、義昭と輝元は滅亡の危機に追い込まれました。
室町幕府は義昭の死により幕を閉じるところが、その運命を覆す出来事が起こります。1582年(天正10年)6月2日早朝、京都本能寺にて、信長が明智光秀により討たれたのです。(本能寺の変)
この後、山崎の戦い、賤ケ岳の戦いなどを経て、天下を掌握した秀吉のはからいで、義昭は再び京都へ戻ります。約15年ぶりの帰還でした。
しかし時代はすでに変わっていました。秀吉は関白・太政大臣として公武の頂点に立ち、圧倒的な地位を築いていました。一方の義昭は、その庇護下に入り、1万石の所領を与えられます。
そして1588年(天正16年)正月、義昭はついに将軍職を朝廷へ返上しました。この時、秀吉の奏請によって皇后などに次ぐ准三宮の称号を受け、諸大名中最高の格式を得ています。
しかし、後継となるべき子・義尋は僧籍にあり、還俗の動きも見られませんでした。ここにおいて、約240年間続いた室町幕府は名実ともに終焉を迎えたのです。
1597年(慶長2年)、義昭は大坂にて61歳で死去します。彼の生涯は、決して平坦ではありませんでした。流浪の身から将軍となり、追放されてもなお将軍であり続け、何度も復権を試みました。
その姿は、単なる室町幕府「最後の将軍」ではなく、「最後まで将軍であろうとした男」として記憶されるべきでしょう。
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山田康弘著『足利将軍家たちの戦国乱世』 中央新書
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