【豊臣兄弟!】織田信長が足利義昭のために築いた“最初の二条城”とは?天下人の石「藤戸石」の悲劇
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第12話『小谷城の再会』。
織田信長(小栗旬)は将軍、足利義昭(尾上右近)のために旧二条城を作ります。
二条城は京都の修学旅行でお馴染みなので、「徳川家康が築城したのでは?」と思う人も多いですよね。実は、「二条城」と呼ばれる城(屋敷)は、戦国時代から江戸時代の初期までに4つあります。
▪️旧二条城:足利義昭の二条城
▪️二条御所:織田信長の二条城
▪️妙顕寺城:豊臣秀吉の二条城
▪️現在の二条城:徳川家康の二条城
今回は、信長が義昭のために作った最初の旧二条城と、その庭に設置した天下人が所有するといわれる『藤戸石(ふじといし)』の悲劇の逸話をご紹介しましょう
信長が義昭のため70日間で作った堅固で華麗な城郭
旧二条城は、永禄12年(1569)に、織田信長が将軍足利義昭のために造営しました。場所は、現在の平安女学院中・高の場所を中心に、東は京都御苑の一部に重なる位置だったようです。
もともとは室町時代の守護大名、斯波氏(しばし)の館跡で、館は義昭の兄である13代将軍・義輝に譲らました。信長自身は普請奉行として、現地で陣頭指揮をとるほどの力の入れようで、約三ヶ月(70日ほどとも)という驚きの短期間で築城に成功しました。
旧二条城を大急ぎで造営したきっかけは、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が義昭のいる京都本圀寺を襲撃した事件だそうです。このくだりは前回の『本圀寺の変』で描かれていましたね。
本圀寺を借り御所としていた義昭は追い込まれますが、まさかの小一郎(仲野大河)が本圀寺の僧侶になりすまし、三好三人衆に攻撃を思いとどまらせるハッタリ大作戦と、藤吉郎(池松壮亮)が、「タイミー侍」を雇い駆けつけるという奇想天外な策で乗り切ったという面白い展開でした。
もちろん、この部分はオリジナルストーリー。けれども、実際に起こった三好三人衆襲撃事件で、信長はより堅牢な防御施設の必要性を感じたようです。(本圀寺は要塞化され防御力は備えてはいたそうですが)
そこで、新しく、旧二条城(公方御構)を作ることとなったのでした。当時は堀をめぐらせ、高い石垣に櫓を設け、城内も庭園や建物に粋を凝らした、堅固で華麗な城郭だったそうです。
見たこともない広大で華麗な宮殿だった旧二条城
信長が作った旧二条城は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスによると、「日本において見たこともない新しい城で、広大かつ華麗な宮殿だった」「石仏や五輪等などの石造物も徴収してあっという間に建てた」など、驚きを持って書き記していたそうです。どのような建築物や造園だったのか……想像が膨らみます。
けれど、その後、信長と義昭との関係が悪化し義昭は畿内から追放。せっかくの立派な建築物も天主や門は解体され、築城中の安土城に転用されてしまったのでした。
遺構はほとんど残っていませんが、1975年代に行われた、地下鉄烏丸線工事に先立つ発掘調査で石垣が発見されたそうです。
その一部は、京都御苑内と現在の二条城内に復元され、平安女学院の敷地の一角には「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板が立っています。
また、二重(三重とも)の石垣と横堀が巡り、天守らしい高層建造物が立っていたことも判明しているとか。かなり信長が力を注いで作ったことが推測されます。
武将の勝利のために理不尽に殺された漁師にまつわる藤戸石
旧二条城ができあがったとき、信長が義昭に贈り庭に設置したのが『藤戸石』です。
藤戸石は、岡山県藤戸の渡で産出されたと伝わる、室町時代から名石として珍重されているもの。
権力の象徴として、室町時代後期には、実権を握った細川管領邸に置かれ、それを織田信長が奪い、義昭のために造営した二条邸に運ばせたと伝わっています。
この石を運ぶ時には、信長が権力を示すために自ら指揮をとり、石を綾錦の布でつつみ、その上に花をかざり、笛・太鼓・つづみなどで賑やかに音楽を奏で、大綱で引いたそう。さぞかし、華やかなパレードになったのではないでしょうか。
けれども、権力者側からみれば「勝利や権力の証」となるこの藤戸石には、実は何の罪もないのに犠牲になった民の血が流れていたのです。
藤戸石の由来は源平合戦まで遡ります。源頼朝の異母弟の源範頼が、一ノ谷の戦い後に西国に兵を進めたときのこと。
範頼勢は、本土側の備前国西河尻・藤戸に陣を構えましたが、波が高く船もないため500m程の藤戸の海峡を渡れずに困っていました。
そこで佐々木盛綱は、地元の漁夫から馬で渡れる浅瀬ができる時間と場所を聞き出し案内させます。けれども、その情報が漏れることを防ぐため、その漁夫を刺し殺してしまうのでした。
漁夫の犠牲があったおかげで佐々木盛綱らも範頼勢も海路を渡り、平氏軍を追い勝利を掴みます。
藤戸石は「漁夫殺害現場にあった石」と言われ、武家社会では一番乗りを果たした盛綱の栄光の象徴の意味もあって”天下の名石”と評された……という、なんとも残酷な話です。
武将にとっては勝利の象徴かもしれませんが、親切に道案内をした挙句に殺された漁夫にとっては理不尽な悲劇そのもの。
この悲劇を今に伝えているのが能の演目、謡曲『藤戸』です。
勝利の陰にある民の犠牲を伝える謡曲『藤戸』
佐々木盛綱は、備前国児島にある藤戸の合戦で馬で海を渡る快挙を成し遂げて先陣の功を上げます。それによって児島を領地に賜るのですが……。
ある日、領地入りした盛綱の前に一人の老婆が現れ「我が子を殺した!」と盛綱を責め立てました。その老婆は、親切に浅瀬の道や時間を教えてくれたのにも関わらず、殺してしまった漁夫の母親でした。
盛綱は敵どころか味方にもこの話が漏れるのを防ぐため、無慈悲にも漁夫を切り捨てたうえに海に沈めてしまったのでした。
盛綱の告白を聞いた老婆は半狂乱になり「息子を返せ、息子を返せ」と迫ります。盛綱は、息子の供養をすることを約束し老婆を返しました。
盛綱が、藤戸の海辺で般若経を読誦して漁夫を弔っていると、その亡霊が海上に姿を現しました。亡霊は、無惨にも殺された恨みを語り伝えに来たといい、刺し通されて海に沈められた惨劇を見せました。
亡霊は悪龍の水神と化して、恨みを晴らそうとしていたのですが、意外にも回向を賜ったことに感謝し、彼岸に至って成仏の身となりました。
という内容です。(ちょっと最後は、権力者にとって都合がいい終わり方になってしまったような)
いつの時代も権力者同士の戦いは、かならず民間人が巻き込まれ犠牲に。『藤戸』は、戦場で華々しく手柄を誇る権力者の陰で理不尽に殺された民がいるという無念や悲哀を今に伝える演目となっています。
※読本系「平家物語」では佐々木盛綱は漁夫を殺してはいないとも
無辜の血が流れ悲しみの慟哭が込められた「藤戸岩」。
前項で触れたように、佐々木盛綱や源範頼らの勝利の象徴、細川官領邸に置かれ権力の象徴となり、旧二条城の庭に運ばれるも信長と義昭が決裂したため後取り壊しになり、信長が本能寺の変で自死後は、秀吉が聚楽第に運び、さらに慶長3年(1598)には醍醐寺三宝院へと移すも、秀吉は完成を待たずに死去……。
一時工事は中断していたものの、醍醐寺住職の義演准后(ぎえんじゅごう)が秀吉の遺志を継ぎ完成させ現在に至ります。
「天下人の石」と呼ばれるものの、その運命のままに移動し続けた「藤戸岩」のくだりは、「豊臣兄弟!」では描かれるのでしょうか。その後の史実を思うと複雑ですね。
「生きているだけで十分じゃ!」が根底に流れている「豊臣兄弟!」。小一郎の「生き延びてくだされ」の言葉に涙をながした義昭。これからどういう展開になっていくのか見守りたいと思います。
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