“頑固一徹”の語源に!織田信長の褒美を拒否した頑固者・稲葉一鉄「豊臣兄弟!」に登場の美濃三人衆の実像
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、美濃三人衆の一人として登場する稲葉一鉄(いなばいってつ)。稲葉良通(いなばよしみち)とも。
斎藤義龍に背を向け、のちに織田信長に仕えた武将として知られるため、情勢を見て立ち回った“現実派”の人物という印象を抱く人もいるかもしれません。
しかし実際の一鉄は、そんなイメージとはかなり異なります。
彼は、四字熟語「頑固一徹」の語源になったともいわれるほど、信念を曲げない人物でした。相手が信長であっても、自分が正しいと信じたことは簡単に譲らない。そんな一本気な気質こそが、一鉄という武将のいちばんの魅力です。
今回は、そんな稲葉一鉄のエピソードをたどりながら、頑固者として知られた実像と、信長との興味深い関係を見ていきます。
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嶋尾康史演じる稲葉良通。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
褒美を受け取らない頑固さ
まずは、姉川の戦いでのエピソードから紹介します。
開戦前、織田信長は徳川家康に対し、「自分の家臣を連れて行ってもよい」と申し出ました。
家康はこれを拒否しましたが、それでも信長は食い下がり、最終的に一鉄のみを指名しました。
開戦後、一鉄は徳川軍として朝倉軍と対峙します。
その最中、織田軍が浅井軍に苦戦しているとの報が入ると、すぐさま戦場を離脱。迷いなく駆けつけ、浅井軍の右翼を突き崩し、信長の窮地を救いました。
この働きにより、一鉄は伊予守の官名を与えられ、織田家中でも一躍注目を集めます。さらに勲功第一にも選ばれ、信長から「長」の一字を与えられ、「長通」と名乗るよう命じられました。
しかし、一鉄はこれを即座に拒否。
「勲功第一は家康である」と言い放ち、自らの手柄を譲ったのです。
目先の褒美よりも自分の考えは曲げない頑なな姿勢は、まさに頑固者と呼ぶにふさわしいものでした。
もっとも、信長の面目を潰すわけにもいかないと考えたのか、後に「長通」と名乗ることになります。
また、『名将言行録』には次のように記されています。
「一鉄は、一度決めたことを曲げない頑固な性格の持ち主である。それ故に世間の人々は、その性格の持ち主を一鉄と呼んだ。」
家康の働きを正当に評価しようとする律儀さと、主君であっても意見を曲げない頑固さ。
この二つの姿勢こそが、一鉄という人物を際立たせているのかもしれません。
単なる無骨者ではなかった一鉄一鉄は、頑固さゆえに無骨者と思われがちですが、高い教養も兼ね備えた人物でした。
それが際立つのが、天正2年(1574年)の出来事です。
織田信長は一鉄に関する讒言を受け、茶会の席で暗殺を企てます。
事態を察した一鉄は、床に置かれていた虚堂智愚(きどう-ちぐ)の墨蹟を読み下し、自らの無実を訴えました。
一鉄の学識の高さと対応に信長は感銘を受け、一鉄の無実を認めたと伝えられています。
幼少期に僧として、快川紹喜(かいせん-じょうき)のもとで学んだ経験がここで活きたのでしょう。
信長から絶大な信頼を置かれた一鉄
先の一件以降、一鉄は信長から一層一目置かれる存在となります。
それをよく表しているのが、天正3年(1575)の出来事です。
上洛を終えた信長は、通常であれば岐阜へ戻るところを、あえて一鉄のもとを訪ねました。
突然の訪問に、一鉄は孫たちに能を舞わせて応じます。
それを見た信長は大いに喜び、帯刀していた刀を褒美として与えました。
また、一鉄が無断で出家したことで信長の怒りを買い、謹慎処分となったこともあります。
それでも一鉄自らが挨拶に赴いたことで、関係が修復したツンデレなエピソードもあることから、信長が一鉄を深く信頼していたことがうかがえます。
頑固さだけではなく、その奥にあった教養と武勇こそが、信長に重用された理由だったと考えられます。
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