朝ドラ「風、薫る」語学を武器に幕末・明治を動かした男…実在人物・清水卯三郎(坂東彌十郎)の生涯

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朝ドラ「風、薫る」語学を武器に幕末・明治を動かした男…実在人物・清水卯三郎(坂東彌十郎)の生涯

朝ドラ「風、薫る」に登場する清水卯三郎。そのモデルは、語学を武器に幕末の国際交渉に関わり、万国博覧会でも活躍した同名の実業家でした。

貿易、出版、言論の普及まで手がけた卯三郎は、当時としてはきわめて先進的な人物です。しかも、その歩みは順風満帆ではありません。学びと挑戦を重ねた先に、日本の近代化につながる仕事が待っていました。

清水卯三郎とは何者だったのか。
その生涯をたどります。

朝ドラ「風、薫る」公式Xより

オランダ語との出会いが世界を広げた

文政12(1829)年3月4日、清水卯三郎は武蔵国埼玉郡で酒造業を営む家の三男として生を受けました。

母は豪農・根岸友山の妹です。根岸友山は、のちに壬生浪士組新選組の前身組織)に一時在籍しており、近藤勇らとも関わることとなる人物です。

卯三郎は幼少期から根岸家に預けられ、伯父・友山と親交のある知識人たちから学問を習う機会を得ます。

そこで卯三郎が強く惹かれたのが、オランダ語でした。

卯三郎はより深く学ぶため、友山の伝手を頼って各地の蘭学者を来訪。佐倉藩の順天堂で教える佐藤泰然や幕府天文台翻訳員・箕作阮甫らからオランダ語を深く学びます。

そしてとうとう、語学の実践的な現場に出ることになりました。

嘉永7(1854)年2月、ロシア全権使節プチャーチンが下田に来航。卯三郎は伯父・友山の計らいによって、プチャーチンの応接係・筒井政憲のお供として随行します。

その際、卯三郎は片言のロシア語で「ヒアリ・コウ(こんにちは)」とプチャーチンに話しかけました。

本来であれば、一回の従者が国の全権使節に話しかけるなど、考えられないことです。しかしこの経験で自信を持ったのか、ロシア語まで習い始めます。

ロシア全権使節・プチャーチン。卯三郎は臆せずに話しかけた。

薩英戦争の仲介に奔走

安政6(1859)年、には開港地となった横浜に在留。親戚が営む、外国人相手の大豆商店を手伝いました。

外国人を相手にする上で、特に痛感したのが英語の必要性です。

鎖国時代はオランダ語が海外との交渉で必要でしたが、幕末ともなると英語の重要性は飛躍的に高まっていました。

卯三郎は通詞の立石得十郎から英語を師事。立石の養子で甥の斧次郎や薩摩藩の松木弘安(後の外務卿・寺島宗則)とも交友関係を広げました。

翌1860年(万延元年)には、英語辞典『ゑんぎりしことば』を発刊。広く後進に英語を学ぶ機会を広げようとしました。

特筆すべきは、アメリカ総領事ハリスの書記官ポートマンから英語を習ったことです。

当時は尊皇攘夷運動が勃興しつつあった時代です。西洋の学問を習い、外国人と関わることは過激な尊皇攘夷派に命を狙われる危険性さえありました。

それでも卯三郎は語学への探究を深め、やがてそれは時代の変わり目にも立ち会う機会を与えます。

文久3(1863)年、薩英戦争が勃発。生麦事件(薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件)の報復として起きた戦争でした。

この戦争は一藩のみならず、日本とイギリスとの関係を危うくするものです。当然、卯三郎は危機感を抱きます。

そこで卯三郎は、人脈を活かして活躍を見せました。

幕府の許可を得た卯三郎は、イギリス側の通訳として軍艦に乗船。和平に尽力しつつ、拘束されていた薩摩五代才助(友厚)や、親友の松木弘安を保護して、親戚や自宅に匿っています。

薩摩とイギリスの和平締結のために奔走し、のちの近代日本を支える人物たちの命を救った瞬間でした。

1人の商人が国際紛争の解決を実現した、という事実は、卯三郎のその後を決定づけていきます。

薩英戦争の様子の写真。和解のために卯三郎は奔走した。

日本人商人では唯一の参加!ナポレオン3世からは銀メダルを受賞する

やがて卯三郎は、日本の「商人の代表」として世界的なデビューを飾ります。

慶応3(1867)年、卯三郎はフランスのパリ万国博覧会に参加。幕府蕃書調所東京大学の前身)教授手伝・箕作秋坪(しゅうへい。かつて師事した箕作阮甫の養子)から勧められ、日本人の商人としては唯一の参加だったとされています。

渡欧にあたっては、徳川昭武徳川慶喜の弟)や渋沢栄一らと行動。スエズやアレクサンドリアを経てパリに至りました。

卯三郎は日本会場において数奇屋造りの水茶屋を再現。日本から連れていった三人の芸者が実際に欧米人相手に茶や菓子でもてなしました。

さらに日本の刀剣や扇子、錦絵などの美術品を出品。世界に向けて優れた文化や技術をアピールしています。

日本会場が大盛況を受けたことで、卯三郎はフランス皇帝ナポレオン3世から名前が入った銀メダルを授与されました。

まさに卯三郎の活躍が、世界に認められた瞬間です。

万国博覧会と時同じくして、日本では旧幕府から、新時代へと移り変わろうとしていました。

卯三郎は万博の後、パリからイギリスとアメリカを見聞。西洋列強の強国を間近に見ています。

慶応4(1868)年5月、卯三郎は日本に帰国。すでに江戸城は無血開城され、戊辰戦争真っ只中の状況でした。

パリ万国博覧会での日本と中国の合同パビリオン。

瑞穂屋を開業!旧時代と新時代の狭間での船出

新たな時代の幕開けを見つつ、卯三郎は西洋の技術を日本に根付かせるという新たな希望に燃えていました。

卯三郎は欧米から石板印刷や陶器着色法、歯科器材などを日本に持ち帰っています。

これらの最新技術を普及するため、卯三郎は「瑞穂屋」(みずほや)という書店を浅草に構えました。

瑞穂屋では西洋技術の翻訳書や西洋の啓蒙書を出版。多くの日本人に西洋のことを知ってもらい、日本を発展させるため、卯三郎は動いていきます。

当初は洋書を中心に扱っていた卯三郎でしたが、やがて薬品や歯科医療器具などの輸入販売も手がける貿易商に転身。翌明治2(1869)年に瑞穂屋は日本橋へ移転して足場を築きます。

さらに石板印刷の機械を輸入して出版業も展開。同年に『六合新聞』を刊行して海外の事情を紹介しました。

明六社の機関誌『明六雑誌』。卯三郎は同誌に「平仮名の説」を投稿した。

日本の発展のために…内国勧業博覧会を実現させる

明治5(1872)年、卯三郎は明治政府に建白書を提出。日本において博覧会を開催して、西洋の文物を展示して日本国民を触発すべきだと述べました。

明治7(1874)年には、明六社の機関誌『明六雑誌』に「平仮名の説」を寄稿。説においては「漢字を減らし、わかりやすい文字で知識を国民に広める」という発想で書かれていました。

同年には『ものわりのはしご』を出版。同書はイギリスの化学の入門書を翻訳したものでした。

「ものわり」は化学のこと(卯三郎の造語)です。「はしご」は階梯を意味しており、入門書を意味します。

より西洋の学問に、わかりやすく、広く確実に触れる。卯三郎の強い意志が一連の行動からは汲み取れますね。

そしてとうとう、卯三郎の苦労が報われる日が訪れました。

明治10(1877)年8月、日本において第一回内国勧業博覧会が開催。当時最新式の西洋の器械が展示されました。卯三郎の願いが結実した瞬間です。

卯三郎の生涯は、特に日本の近代化に捧げられた、と言っても過言ではありません。

明治43(1910)年1月20日、卯三郎は世を去りました。享年82。

朝ドラ「風、薫る」においては清水卯三郎の「強い人も、弱い人も、みんなで社会」と言うセリフがあります。

日本や世界の歴史に偉大な実績を残した傑物。しかし驕ったところを見せず、むしろ弱者に対しても、その役割を与えるべく奔走した人物でした。

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