映画『国宝』の舞台・上方歌舞伎とは?大阪松竹座存続の裏で問われる未来
歌舞伎俳優の生き様を描き、今なおロングランヒットを続ける映画『国宝』。
ご覧になった方ならお分かりかと思うが、この作品の登場人物たちは、基本的に関西弁である。そう、この作品の舞台は関西、すなわち「上方」である。
江戸と上方、二つの歌舞伎
歌舞伎には、「江戸」と「上方」の二つの系譜がある。
江戸歌舞伎の芸風は「荒事」と呼ばれている。超人的な力をもち、勇猛粗暴な性格の持主の正義の勇者が、非現実的な霊力によって悪人を退治する勇壮な内容のものである。
これに対して上方歌舞伎の芸風は「和事」と呼ばれている。男女の情愛を扱った、柔らみのある内容のもの。
現代の劇場には当たり前のようにある「廻り舞台」や「セリ上げ」などの舞台技術も、発祥は上方歌舞伎である。その他、歌舞伎の根幹である「型」に対する考え方、芸の伝承方法、様々なものが江戸歌舞伎とは趣を異にする。新しいアイディアと独自の芸風を持った歌舞伎文化が、そこにはあった。
大阪一の繁華街、道頓堀はかつて、芝居小屋の街だった。
江戸期から、「道頓堀五座」と称された五つの劇場(浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座)で、上方歌舞伎の名手たちが芸を競い、観客を沸かせた。明治期には、初代中村鴈治郎(安政7(1860)年~昭和10(1935)年)、二代目実川延若(明治10(1877)年~昭和26(1951)年)などの錚々たる俳優たちが舞台をにぎわせてきた。
時折、江戸・東京から当代随一の役者たちが上方入りした時には、街は祝福と歓迎に包まれた。
しかし太平洋戦争終結後、様子は一変する。
上方歌舞伎を支えてきた名優たちが次々と鬼籍に入り、中堅・若手の俳優たちは孤軍奮闘を強いられてしまう。また、戦後の大阪経済の大きな衰退の中で、それまで上方歌舞伎を支えてきた後援者が相次いで拠点を東京に移してしまったことも、上方歌舞伎凋落の要因のひとつであった。
大阪松竹座の行く末、上方歌舞伎の行く末
長く上方歌舞伎の拠点であり道頓堀の歌舞伎文化を守ってきた大阪松竹座が、今年の5月末で閉場する。
いや、「守ってきた」のではない、「踏みとどまっていた」が正しいか。
大正12(1923)年に、日本初の鉄筋コンクリート造りの洋式劇場として道頓堀に建設された大阪松竹座は、当初は「松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)」の公演や映画館として運用が主軸だった。
その後平成9(1997)年に2月に新築開場して以降は、歌舞伎をはじめ新劇、松竹新喜劇などの舞台芸術専用劇場として今日に至っている。
「道頓堀五座」無き後、そして戦後の混乱期を経て、道頓堀の歌舞伎文化の「牙城」となっていた松竹座。しかし建物の老朽化などにより、この5月の歌舞伎の公演を最後に閉館すると発表されていた。
大阪から、道頓堀から芝居の「灯」が消えるかもしれない…上方歌舞伎はどこへ行くのか…
「舞台があればどこでも公演できる」と言われれば、それまで。しかし歌舞伎は花道も必要であるし、BGMたる歌舞伎下座音楽を演奏する場所である黒御簾も必要である。だからこそ専用舞台の存在が重要なのである。
これからの暗澹たる行く末への不安が募る中、近づく閉場のタイムリミット…
そこに突然、大阪松竹座や大阪市は「形を変えて松竹座を存続させる」方針を決めた、という一報が入る。
参考記事:【速報】5月閉館から一転 大阪松竹座が“形を変えて”存続する方針へ
折しも前日、この4月からはじまる、現・松竹座最後の歌舞伎興行「さよなら公演」の開幕に向けて、「大阪松竹座 御名残道頓堀お練り」と銘打って、出演俳優たちが道頓堀を人力車で巡った。
たくさんの人が出演俳優の道頓堀入りに歓声を上げたこの場で、十五代目片岡仁左衛門は「御名残公演というのは、お休み公演でございます。必ず道頓堀に小屋が建つと思います」と口にした。
この仁左衛門さんの言葉の背景には、すでに水面下で松竹座存続への動きが進んでいた、との報道も追って出ている。
参考記事:「大阪松竹座、2か月前の土壇場で閉館から一転して存続へ 片岡仁左衛門らが閉館反対を表明していた – スポーツ報知」
大阪府・大阪市、そして仁左衛門さんをはじめとする上方歌舞伎の俳優たちの熱意に、松竹が答えたかたちである。
もう一度、道頓堀が「芝居街」になるために
文字通り、上方歌舞伎は踏みとどまった。
しかし踏みとどまり続けるのも、中々にしんどい。徳俵に足がかかった状態から、巻き返しを図り、前進していかなくてはいけない。
そのためにも今一度、運営側には劇場・芝居小屋が「まちのかお」である、という認識に立ってほしい。
歌舞伎座もその面影を残しながらも、「歌舞伎座タワー」というかたちでビルを併設しているようなかたちになった。
松竹座と共に、戦後上方歌舞伎の拠点になっていた新歌舞伎座も、ビル形式へと様変わりした。明治座なども然り。
似たような建物ではなく、唯一無二の個性を持っている劇場づくり・芝居小屋づくりに意識を向けてほしい。
新しい拠点づくりが公然のものとなり、少しだけ未来に向けての光が差しはじめてはいるが、そこまで行くにも、多少の時間はかかる。
これから上方歌舞伎がどこで上演されようとも、その文化とを残していかねばならない。
課題は多いかもしれない。しかし文化を紡いできた者たちの系譜は、幾人もの若き継承者たちに、今も着実に受け継がれている。
彼らの思いと熱意を集められるような、あたらしい「まちのかお」が、一日でも早く私たちの前にあらわれることを願ってやまない。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan