江戸時代の農民は“弱者”ではなかった!幕府の強制検地をも断念させた百姓たちの交渉力と生活防衛術
思ったより軽い年貢
江戸時代の農民といえば、重い年貢に喘ぎながら貧しく暮らしていたイメージが一般的です。
当時の重い年貢率を指す言葉として、収穫の5割を領主へ年貢として納め、残りの5割が農民の取り分となる五公五民という言葉もあるほどです。
しかし、当時の実質的な年貢率をデータで精査すると、実際には三公七民ほどが一般的だったと考えられています。
江戸初期こそインフラ整備のために四公六民程度となっていましたが、整備が進むと三公七民へと落ち着きました。
しかも、徴収された年貢の多くは土木工事の労賃として農民に還元されていたのです。
そもそも年貢の決め方には、その年の出来高で決める検見法という方式がありましたが、この方式では最も収穫の悪い田を基準にするため農民に有利だったのです。
検地の結果を村単位で取りまとめた「検地帳」(Wikipediaより)
また農民たちは、検見に来る役人を丁重にもてなすことで、年貢を低く抑える交渉を行いました。賄賂を渡して負担を減らしてもらうことも、当時はごく当たり前のことだったようです。
そしてのちに主流となった定免法では、収穫が増えても年貢の額は一定に据え置かれました。こうなると増産分はすべて農民の利益になるため、彼らの生産意欲は劇的に高まったのです。
さらに災害時には年貢を減免するなど、幕府や藩による柔軟な運用も徹底されていました。江戸時代の徴税システムは、農民の生活が破綻しないよう緻密に計算された合理性に基づいて運用されていたのです。
強制捜査も中止に追い込むところで江戸時代の農村には、隠し田と呼ばれる帳簿外の田んぼが存在していました。ここで収穫された米には一切の年貢がかからないため、農民たちの重要な裏金となっていました。
役人も隠し田の存在を察知していましたが、あえて深く追及していませんでした。
元禄期から使われ始めた農具「千歯こき」(Wikipediaより)
もちろん領主側も、隠し田を摘発して税収を増やしたいという本音は持っていました。しかし、そのために行われる検地という調査は、政治的に極めてリスクの高い行為だったのです。
どういうことかというと、土地を正確に測れば隠し田がバレるため、農民たちが猛反発するのは必至です。検地を強行することは現代の強制捜査に等しく、農民の怒りを買う危険な博打だったのです。
実際、天保十三年に幕府が近江で行おうとした検地が、農民たちの反対で中止に追い込まれたというケースも存在します。
当時の農村は武力に匹敵する集団的な交渉力を持っていました。彼らはただ支配されるだけの社会的弱者ではなく、主体的な力を持っていたのです。
農民の実力江戸時代の農民がいかに巧みに制度をすり抜けていたかは、地租改正の際の明治政府による調査で証明されました。
江戸時代の公式記録では三千二百二十二万石だった収穫量が、実際には四千六百八十四万石もあったのです。なんと名目上の収穫量の一・五倍です。
日本中にはこれほど膨大な面積の隠し田が存在しており、農民たちは数百年にわたってこれほどの莫大な富を国家に申告せず自分たちの懐に収めていたのです。
このように、江戸時代の農民たちは驚くほど戦略的な生活防衛を行っていました。ある時は賄賂を使い、ある時は隠し田を耕し、ある時は集団で抵抗して負担を削ぎ落としたのです。
領主側も農民の反発を恐れた結果、こうしたしたたかな脱税を黙認せざるを得ませんでした。江戸社会は、実質的には農民側の意向が強く反映された相互妥協の社会だったと言えるでしょう。
当時の農民たちは制度の隙間を読み解き、自らの利益を最大化させようと努める知的なプレーヤーでもあったのです。江戸時代の豊かさは、彼らのバイタリティによって支えられていた部分も大きかったのでしょう。
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