朝ドラ「風、薫る」直美(上坂樹里)の夫、早逝の軍人…小日向栄介(藤原季節)のモデル・鈴木良光の生涯 (2/2ページ)
※朝ドラ「風、薫る」実在モデル紹介記事
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将軍家御目見の旗本、明治政府と戦う
嘉永2(1849)年、鈴木良光は幕臣・鈴木良右衛門の子として生を受けました。当時の幕府旗本には、鈴木姓を名乗る家がいくつかあります。良光もそこの出身であったと思われます。
天下泰平な時代であれば、何事もなく過ごせるはずでした。しかし平和な時代は突如として終わりを告げます。
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。対応を巡って幕府の権威に陰りが見え始めます。
幕末の軍制改革において、父・良右衛門は陸軍奉行並支配という役職に就任しました。
陸軍奉行は、三兵(歩兵・騎兵・砲兵)を統轄する役職。陸軍奉行並はそれに準じる役職で、支配はそのさらに下において兵の統率や管理に関わる任務でした。
実務的な役目であるため、家柄だけでなく、能力や人柄において良右衛門が期待されていたことがわかります。当然、良光が父の薫陶を受けていたことは想像に難くありません。
慶応3(1867)年10月、将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上(大政奉還)。これにより、徳川幕府の時代は終わりを告げました。
翌慶応4(1868)年1月には、鳥羽・伏見で旧幕府軍と薩長率いる新政府軍との間で軍事的な衝突が発生。20歳となっていた良光はこの戦いに参加して初陣を飾っています。
しかし戦いは旧幕府軍の敗北で終わり、同年4月には江戸城も無血開城となりました。
良光は父・良右衛門と共に旧幕府軍に身を投じて各地を転戦。北海道の五稜郭まで戦い抜きます。
戦後、良光は榎本武揚の説得によって降伏。しかし父・良右衛門は降伏を認めずに、北方領土方面に逃れ、2度と戻ることありませんでした。
その後、良光は静岡に移封された徳川家に出仕。雌伏の時を過ごします。

箱館御役所。ここに奉行所の庁舎が置かれた。良光らも出入りしたのだろうか。
新時代で生きていく…陸軍軍人としての活躍明治の時代に入り、時代の変化は良光にも迫ってくることとなります。
明治4(1871)年、良光は陸軍に入隊。大阪鎮台歩兵第九連隊に所属します。良光には家系的に見ても軍事的素養が培われていたことは確実で、実戦での経験もありました。その経験もあってから、順調に出世街道を歩んでいきます。
明治10(1877)年には所属する陸軍大尉に当たる歩兵第二大隊長心得となっていました。
同年2月、良光は別働第一旅団に編入されて西南戦争に出征。3月には肥後国に到着し、新政府軍の一員として西郷軍と戦いました。
この中で激戦地である田原坂にも従軍。戦功を挙げて陸軍少佐に上り詰めます。かつて旧幕府軍の一員であった良光が、上級将校の地位を固めた瞬間でした。
地位を築いた良光は、やがて生涯の伴侶と巡り合います。明治11(1878)年、静岡県士族・加藤信盛の娘・加藤雅(大家直美のモデル)と結婚。家庭を築きました。
明治13(1880)年9月には、中部監軍部に移動。軍令と検閲に関わる重要な部署でした。
翌明治14(1881)年6月には、第2軍管第4師団管後備軍司令官を拝命。明治16(1883)年1月には第2軍管への出張徴兵使となっています。
同年6月には補第5管第12師管後備軍司令官を拝命しますが、良光の身体は悲鳴を上げていました。
西南戦争で受けた古傷が、良光の体力を奪っていたようです。同年10月、良光は軍に療養願を提出。そのまま免職となりました。
12月5日、良光は任地先であった仙台で世を去ります。35歳という若さでした。
妻の雅との間には、まだ幼い子供がいたと言います。
雅は夫である良光の死をきっかけに、看護の道へと進んでいくのです。
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