『豊臣兄弟!』規格外の猛将・藤堂高虎(佳久創)ついに登場!後に豊臣秀長・秀吉に仕える激動の生涯
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第15話『姉川大合戦』劇中の合戦で、ついに登場した超巨漢武将・藤堂高虎(とうどうたかとら 演:佳久創)。
秀吉、秀長、正勝3人を同時に相手にしても一歩も引かない猛将ぶりを見せていましたが、なんと高虎、史実では姉川の合戦が初陣で、しかも14歳という若さだったのです。
そして後に豊臣秀長、秀吉に仕え、最終的には徳川家の忠臣として活躍することとなります。
その生き様からは、現代を生きる我々が参考にすべきキャリア開発やフォロワーシップを学ぶことができるのですが……今回は高虎の生涯をご紹介しましょう。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより
藤堂高虎とは
藤堂高虎は1556年、近江(滋賀県)に生まれました。
石田三成(1560年)、福島正則(1561年)、加藤清正(1562年)ら、後に豊臣秀吉によって取り立てられることになる大名たちと同年代。最終的な主君となる徳川家康は22歳年上、秀忠は23歳年下、家光は48歳年下です。
幼いころから大柄で、最終的には身長190センチ、体重110キロという恵まれた体格の持ち主に育ちます。当時の平均身長は154センチ程度だったと言われているので、恵まれたどころか規格外の巨漢だったと言えるでしょう。
藤堂家は武士の家柄でしたが高虎が生まれた頃には没落しており、彼は一兵卒としてそのキャリアをスタート。最終的には徳川家に仕え、伊勢、伊賀に32万石の領地を持つ大名家の創始者となります。
その経歴を見ていきましょう。
藤堂高虎(Wikipediaより)
一人目・就職はまず地元から
最初の主君は地元近江の戦国大名・浅井長政。
織田信長の妹・市を妻に迎え、当初は信長と友好関係を築くも最終的には反旗を翻し、攻め滅ぼされた大名です。
高虎は、浅井家が朝倉家と組んで織田・徳川連合軍と戦った「姉川の戦い」で活躍し、長政からも賞賛を受けます。
実はこれが高虎の初陣で、しかも14歳。末恐ろしい逸材ですが、それだけに妬まれることも多かったようです。
「カッとなってやった」
同僚の嫌がらせにキレた高虎は相手を斬殺し、浅井家を出奔します。
二人目・若気の至り?二人目の主君は阿閉貞征(あつじさだゆき)。
浅井長政が織田信長と敵対すると、信長は浅井家に属していた武将たちの切り崩しを図ります。阿閉はそうして織田側に寝返った武将の一人でした。
高虎は阿閉家に就職しますが、早々にいざこざを起こして先輩を斬り殺し、出奔。しかも今度は二人も。
後に高虎の伝記には
「実はあれ、主君の密命で裏切者を斬ったんですよ」
というフォローが入っていますが、高虎自身が
「カッとなってやった」
と述懐して台無しにしてしまったという微笑ましい(?)エピソードが残されています。
三人目・良い上司を見つけたと思ったら三人目の主君は磯野員昌(いそのかずまさ)。
阿閉と同じく浅井から織田へ寝返った武将の一人で、浅井家では勇将として知られていた人物でした。
磯野は高虎の実力を認めて80石(80石の米が取れる領地を与えたという意味。1石は大人1人が1年間で消費する米の量)で召し抱えますが、磯野自身がいまいち精彩を欠き、織田家での立場を失い没落していきます。
そして最終的に、織田信長の甥を養子に取らされるという形で、磯野家は織田家に乗っ取られてしまいます。高虎も、そのまま次の主君に仕えることになったのです。
なお、高虎は後に出世して大名になった後、磯野の一族を家臣として召し抱え、面倒を見ています。
四人目・活躍は認めてもらえたものの新たに主君となった織田信澄(のぶずみ)の下で、高虎はなんだかんだで活躍をします。そしてその活躍を認められ、親衛隊に抜擢されることになるのです。
「親衛隊になった以上、馬などもしっかりと用意せねば……あれ?」
しかし、領地の追加はありませんでした。
当時の武士は主君から土地を与えられ、そこから得た収入で武器や防具、馬などを自分で用意するのが原則でした。親衛隊になれば必要経費も増えます。が、収入は据え置かれてしまったということです。
「殿、これでは必要経費も賄えません」
直談判するも、信澄からはついに良い返事を得ることができず。見切りをつけた高虎は、信澄の下を去ることにしたのです。
こんな感じで信澄とはイマイチな別れ方をした高虎ですが、本能寺の変によって生じた混乱の中で信澄が命を落とすと、その妻と幼い息子を保護しています。
さらに後年、信澄の息子は豊臣家に仕えて大坂の陣で徳川と敵対します。豊臣家が滅びると囚われの身となりますが、高虎のとりなしによって命を助けられ、最終的には江戸幕府の旗本となって天寿を全うすることができました。
五人目・ついに巡り合った理想の上司織田信澄の下を去った高虎はしばらくニート生活を送っていたようですが、友人の紹介で羽柴秀長(はしばひでなが)に仕えます。織田信長の重臣であった羽柴秀吉の実弟であり、右腕として兄を支えていた人物です。
羽柴秀長 肖像
秀長は高虎の実力を高く評価し、300石で彼を召し抱えます。
「いきなり給料が3倍に!」
感激した高虎は秀長のために全力を尽くすことを誓います。1576年、高虎が20歳の時でした。
その誓い通り、ある時は戦場で、ある時は行政官として、ある時は外交官として働いた高虎はその活躍を認められ、誰もが認める秀長の重臣にまで昇り詰めました。与えられた領地も2万石という広大なものになっていました。
秀長の兄・秀吉は天下を統一したために、秀長と高虎の地位もそれに引きずられるようにして上がっていったのです。
しかし1591年、敬愛する上司・秀長は多くの人に惜しまれながら病死(享年52)。後を継いだ秀保(ひでやす)も1595年には夭折(享年17)し、秀長の家系は断絶してしまいます。
「もはやこの世に未練はない。僧になって秀長さまの冥福を祈ろう」
世を儚んだ高虎は出家を決意し、高野山に登ったのでした。しかし、高虎ほど有能な士を、世間は放っておかなかったのです。
なお、高虎は秀長を生涯にわたって慕い続けたようです。江戸幕府成立後も幕府の許可を得て、秀長の法事を営み続けていました。
六人目・秀長さまの兄ではあるが
高野山にいた高虎の下に、亡き秀長の兄で、天下人となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)から直属の部下として現役復帰しないかという誘いが舞い込みます。
豊臣秀吉肖像
「秀吉さまか。あれほど尽くした弟の家系を断絶させた方ではないか。たしかに後継者はいなかったが、その気になれば養子を取らせるなどして存続させることはできたはずなのに……」
そんな思いがあったのか、なかなか良い返事をしなかった高虎ですが、最終的には承諾し、伊予(愛媛県)宇和島7万石を与えられて大名となります。
新領地である宇和島が水軍の拠点であったことから、水軍を率いて秀吉の朝鮮出兵(慶長の役)に参加。海戦はもちろん、陸戦でも戦功を立てています。
そして1598年、秀吉が没する少し前から徳川家康に接近。
1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、東軍主力として戦ったのはもちろん、西軍の切り崩し工作も行いました。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の西軍から東軍への「寝返り」が有名ですが、実は秀秋の挙動が怪しいことは西軍首脳も見抜いており、その周辺に脇坂、朽木、小川、赤座といった大名たちを配置して秀秋の裏切りに備えていました。
しかしその四人は高虎の手によって東軍に通じていたため、本来小早川勢を防ぐはずだった連中がいっしょになって襲い掛かってくるという、西軍にとっては悪夢のような光景が現出したのでした。
七人目・徳川家の忠臣としてかくして関ヶ原の戦いを制した徳川家康は1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きます。これに伴い、高虎も江戸幕府の大名となったのです。
その後も大坂の陣、江戸城の改築、朝廷との折衝、他の大名家のフォローなどで活躍。徳川家康(とくがわいえやす)はもちろん、その後継者である秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)からの信頼も厚く、最終的には伊勢・伊賀に移され、32万石を領する大大名になります。
そして1630年、75歳でこの世を去ったのでした。その遺骸は老人とは思えないほどたくましく、その全身は傷跡だらけで隙間もないほどだったと言います。
転職回数が多いのは悪いこと?
高虎の職歴をまとめると以下の通りです。
合計6回の転職で7家に勤めており、確かにこれは当時でも多いほうです。
しかしここまで見てきた通り、人間関係の悪化(あるいは若気の至り)や勤務先の消滅などが転職理由のほとんどでした。
そして、羽柴秀長という仕えるに値する主君を見つけた後は一途に尽くしており、元主君の遺族を保護していることなどから、変節漢どころか義理堅い人物だったと言えるのではないでしょうか。
戦国時代の武士たちは、自らが仕える主君を自らの意思で選んでいました。こいつは実力がないな、こいつは自分を正当に評価してくれないなと思えば、見限るのはむしろ当然のことだったのです。
しかし江戸時代になると
「武士は二君に仕えず」
という倫理観が形成されます。主君がどんなに無能でも、どんなに自分をさげすんでも、一途に仕え続けるのが忠義である、と。
その価値観に従えば、たしかに高虎のキャリアは眉をひそめるものです。しかし所詮は後付けの評価。高虎にそれを言ったところで、鼻で笑われるだけでしょう。
身長190センチ、全身傷跡だらけのマッチョを相手に、そんなことを言える人がいればの話ですが。
ここまで、藤堂高虎の経歴をご紹介してきました。
高虎は己の能力を磨き、これと見込んだ主君のために惜しみなくそれを発揮し、それによって絶大な信頼を得ることができました。その辺りを詳しく見ていくことで、キャリア開発やフォロワーシップといった、現代を生きる我々の参考になる考え方を学ぶことができます。
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