豊臣秀吉の出世は“努力物語”だけじゃない!戦国時代の成り上がりを支えた意外な水運ネットワーク (2/4ページ)
※参考:
【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)を支える義兄弟──前野長康と蜂須賀正勝、明暗別れたそれぞれの末路史料の信憑性にはいくぶん疑問が残るものの、秀吉が地域の有力者と交流していたという点は、他の史料とも矛盾しません。
もともと川並衆は尾張に拠点を置きながらも、美濃の武士と深い関係を持っていました。木曽川の水運は尾張と美濃を結ぶ生命線であり、彼らはその流域で独自のネットワークを築いていたのです。
秀吉はこのネットワークに触れ、地域の情報や人脈を吸収していったのでしょう。
調略の成功秀吉が川並衆との関係を最大限に活かしたのが、美濃攻略における調略でした。
永禄八年、秀吉は美濃松倉城主・坪内利定を調略し、東美濃侵入の案内役に引き込みます。
この事実は『坪内系譜』に記されていますし、さらに信長が利定に出した知行安堵状と、秀吉自身の副状が『坪内文書』として現存しているので間違いない史実です。
ちなみに後者の副状は秀吉の初出史料であり、二十九歳の秀吉が調略を任される立場にあったことを示す重要な証拠です。
では、なぜ秀吉は利定の調略に成功したのでしょうか。

