織田信長の本当の強さは軍事だけじゃない!戦国時代、全国規模の枡統一と精密検地で不公平を正した改革力
枡の統一
戦国時代の日本では、地域ごとに枡の大きさや単位がバラバラでした。
現代のように規格が統一されていないため、年貢を納めるときに徴収側が大きめの枡を使えば、農民は本来より多くの年貢を取られてしまいます。
この問題は深刻で、枡の不公平が原因で一揆が起きた例もあります。
また、遠隔地との商取引でも、枡の大きさが違えば「枡あたりいくら」という取引が成立せず、いちいち換算が必要になるため面倒臭く、経済活動の妨げになっていました。
この問題を抜本的に解決したのが織田信長です。
永禄十二年、信長は京都で最も広く使われていた十合枡(京枡)を全国標準と定めます。
それまでにも、こうした枡の統一は他の大名も試みていましたが、全国規模で徹底したのは信長が初めてでした。
この京枡の制度は江戸時代にも引き継がれ、なんと昭和期まで使われています。
現在でも米や酒の単位に「升」「合」が残っているのは、信長の政策の名残と言っても差し支えありません。
枡の統一は、年貢の不正を防ぎ、領民の脱税も抑え、さらに商取引の信頼性を高めるという、経済全体に影響する重要な改革でした。
信長はそういうポイントをちゃんと押さえており、しかも実効性の改革をきちんと行う人物だったと分かります。
隠田をあぶり出せ!さらに信長は枡の統一に加えて、大規模な検地を行いました。
検地とは、農地の広さや地力を調べ、収穫量を推定し、年貢の基準を決める作業です。現代で言えば、領内の固定資産台帳をつくるようなものです。
「検地は豊臣秀吉がやったんじゃないの?」と思われるかも知れません。確かに有名なのは豊臣秀吉の太閤検地ですが、信長はその前に同様の検地を行っており、秀吉は偉大な先輩の方式を踏襲したと考えられています。
戦国時代、農民は隠田を持つことが少なくありませんでした。また検地は一揆の原因にもなるため、多くの大名は実施をためらっていました。
仮に検地をするとしても、農民が自分で測った数字を申告する差出検地が一般的で、実測はほとんど行われていなかったのです。
歴史上、農民は弱い立場だったとイメージされがちですが、実は有力大名たちも検地によって刺激するような迂闊なことはできませんでした。農民は意外と力を持っていたのです。
しかし信長は、強い統治力と領民との信頼関係を背景に、縄入れ(実測)による精密な検地を実行しました。
天正五年の越前検地では「歩」単位まで記録されており、これが農民の自己申告ではなく実測であることが分かります。
これは信長以前の大名には見られない精度でした。こうして彼は隠田をあぶり出し、年貢の基準を公平にし、領内の税体系を安定させたのです。
信長の税制改革の目的信長のこうした政策には一貫した指針がありました。それは「税を逃れている者、勝手に税を取っている者を排除し、領民の負担を軽くする」というものです。こうした基準に基づいて、上記のような政策が実施されたのでした。
さらに信長は、領民に対して「年貢以外の重い税を課してはならない」という方針を示し、中間搾取を徹底的に排除します。
実際、信長領の年貢率は収穫の三割程度とされ、戦国期としては破格の低さだったといいます。
江戸時代の年貢が四〜五割であったことを考えると、信長の設定した税率は非常に軽いものでした。
農民が潤えば人口が増え、領内が発展し、結果として税収も安定します。信長が急速に版図を広げられたのは、軍事力だけでなく、こうした領民の支持を得る税制改革があったからです。
信長こそが戦国時代における税制の近代化の先駆者だったのは間違いないでしょう。こうした点からも、織田信長という人物の偉大さが分かりますね。
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