世界遺産マチュピチュに“村をつくった日本人”がいた!知られざる野内与吉の生涯
ペルーの山奥、雲に隠れるように広がるマチュピチュ。遺跡の名前は広く知られていますが、その麓の村に日本人が深く関わっていたことは、あまり知られていません。
その人の名を、野内与吉(のうちよきち)といいます。
「遠い国へ行きたい」から始まった1895年、野内与吉は、福島県安達郡玉井村に生まれました。
家は裕福な農家でしたが、与吉は家業を継ぐ道を選びませんでした。理由ははっきりとは分かりません。けれど、おそらく「遠い国へ行きたい!」「外を見てみたい!」という気持ちのほうが強かったのでしょう。
1917年、与吉は21歳でペルーへ渡ります。当時の南米は、ゴム景気の影響もあり、日本の移民が増えていた時期でもありました。
しかし、現地の暮らしは想像以上に厳しく、与吉は、契約内容と実態の違いにも直面します。そのため農園を離れ、その後はアメリカ、ブラジル、ボリビアと各地を転々としたようです。仕事を変えながら、生活をつないでいく日々でした。
鉄道の仕事に就く与吉は、最終的にペルーへ戻り、国鉄の仕事に就きます。これは、アンデス山中に線路を敷く作業で、危険も多く、楽な仕事ではありませんでした。そして、この仕事を通じて、マチュピチュ周辺と関わるようになります。
当時、このあたりの地域は開発が進んでおらず、インフラもほとんどありませんでした。
長く暮らすには厳しい環境だったといえます。それでも与吉は、そこに留まることを選びました。
「生活をつくる」という意識
当時のマチュピチュの麓は、小さな集落にすぎませんでした。電気もなく、水も安定していませんでした。
与吉はまず、水の確保に取り組みます。山から水を引き、水路を整備しました。
さらに水力を利用して発電を行い、明かりを確保します。畑も開き、作物を育てられる環境を整えました。また、温泉を見つけ、生活資源として活用しています。
これらは誰かに指示されたものではなく、生活のために必要だったからこそ行われたものでした。それでも、一人でここまでやるのは簡単なことではなかったはずです。とはいえ、一人の人間が、これだけのことを考え、実行に起すことが、そもそも凄いことだと思いませんか?
こうして、与吉が働きかけた結果、少しずつ人が定住できる環境が整ってきました。
1935年、与吉は三階建ての建物を建てます。後に「ホテル・ノウチ」といわれる建物です。この建物は単なる宿泊施設ではありませんでした。
一階は郵便局や交番として使われ、二階には村長室や裁判所の機能も置かれました。つまりこの建物は、宿泊施設であると同時に、村の中心施設としての役割を担っていたのです。当時の状況を考えると、この建物自体が行政インフラの一部だったといえます。
1941年、太平洋戦争が始まります。ペルーでも日本人は警戒の対象となり、各地で拘束などが起きていました。与吉にもその危険が及びましたが、村人たちは彼を命がけで匿いました。こういう場面に、その人がどう生きてきたかが出る気がします。長い時間をかけて築いてきた信頼が、ここで表れたのだと思います。
ようやくの一時帰国1947年、大きな土砂災害が発生し、村は大きな被害を受けました。
翌年、与吉は村長に任命されました。肩書きというより、「この人に任せるしかない」と思われた結果でした。
彼は復旧と再建に取り組み、再び人が暮らせる場所へと整えていきます。
1958年、三笠宮崇仁親王殿下がマチュピチュを訪問されました。その際、与吉の娘が殿下に花束を渡したことがきっかけとなり、日本にいる家族に彼の存在が知られることになります。
それから10年後の1968年、ようやく与吉の一時帰国が実現します。出国から52年後のことでした。当時の日本では「今世浦島」(現代の浦島太郎)と話題になりました。
与吉の最後とその後1969年、与吉は家族に見守られながら、ペルーで亡くなりました。
それから年月が経った2015年、マチュピチュ村は福島県大玉村と友好都市協定を結びます。その背景には、この人の存在があったことは間違いありません。
インフラも制度も整っていない場所で、生活そのものを築いていった人がいました。
その積み重ねが、今の村の姿につながっています。
参考
IMT特別展示『黄金郷を彷徨う―アンデス考古学の半世紀』マチュピチュと野内与吉の物語 東京大学総合博物館、2026年4月7日閲覧 野内 セサル 良郎(他)編『世界遺産マチュピチュに村を創った日本人 「野内与吉」物語 – 古代アンデス文明の魅力』(2016 新紀元社)日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
