『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[後編]

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『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[後編]

『豊臣兄弟!』第15回「姉川大合戦」では、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍による死闘が描かれました。

※第15回「姉川大合戦」関連記事:

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この姉川の戦いでは、秀吉(演:池松壮亮)も秀長(演:仲野太賀)も生き残るために壮絶な戦いを強いられます。

しかし、信長がいただく将軍足利義昭は、京都・二条御所にて静観を決めつけていたのです。

[後編]では、なぜ義昭が信長に援軍を送ることなく、御所から動かなかったのか。足利将軍家の軍事態勢にスポットを当て、その理由を深堀りします。

[前編]の記事はこちら↓

『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[前編]

足利義昭・明智光秀と織田信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

室町幕府発足当時は単なる地方官だった

山城一国という、わずかな直轄領しか持たない足利将軍たちは軍事行動を起こすとき、どのような対応を行っていたのでしょうか。

それは、地方においた守護に頼ることでした。

戦国時代、管領として絶大な権力を振るった細川政元。(龍安寺蔵)Wikipedia

室町幕府の政治機構は、中央と地方に分かれます。

中央には、将軍の補佐を行う管領が置かれ細川氏・斯波氏・畠山氏が交代で務め、これを三管領と称しました。さらに、その下には、行政機関である、政所・侍所・問注所などがあります。

政所は、将軍家の直轄領の管理・金銭関係の裁判。侍所は、京都の治安維持。問注所は、書類などを扱う事務機関です。この内、侍所は有事において軍事召集や軍事的指揮を司るため、その長官には赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏を置き、これを四職と称しました。

一方、地方には守護や鎌倉府などが置かれました。足利将軍家が軍事行動における要として、ことあるごとに頼ったのが守護です。三管領や四職を務めたのも、いずれも有力な守護でした。

守護を簡単に言えば、「国ごとに置かれた将軍の代理人」となります。

足利尊氏。(絹本著色伝足利尊氏像・浄土寺蔵)Wikipedia

足利尊氏は、室町幕府の法令『建武式目』において、守護について次のように記しています。
「守護職は上古の吏務なり、国中の治否、ただこの職に依る」
「守護が補せらるの本意は、治国安民のためなり。人として徳あらばこれを任じ、国として益無くんばこれを改めむべし」

つまり、「守護は律令制における国司のようなものであり、国が収まるか否かは守護にかかっている」「守護の本務は治国安民であり、徳ある者を任じ、不適任であれば直ちに罷免する」ということでした。

このように、足利将軍が考える守護とは、将軍が京都から各国に派遣した将軍の代理人であり、その国を領有するものではなく、非世襲の職ということになるのです。

室町幕府の黎明期である将軍の尊氏と義詮は、守護に北朝側の有力武将たちを任命します。その代表が、足利氏支流である三管領の細川氏、斯波氏、畠山氏であり、その他にも赤松氏、一色氏、京極氏・武田氏・土岐氏・山名氏・大友氏・島津氏などが、守護に任命されました。

将軍と守護大名は持ちつ持たれつの関係だった

さて、当初は将軍の信任が厚いという理由で、国内統治を安定させるための地方官であった守護は、時代が進むにつれその様相が大きく変化していきます。

その理由は、尊氏・義詮の時代に南北朝の争乱や観応の擾乱といった戦乱が続き、将軍が勝ち抜くためには守護の軍事力を必要としたからです。

応仁の乱では東軍の主将となった管領・細川勝元。(龍安寺蔵)Wikipedia

守護たちは将軍の軍事的な期待に応えるために、単なる地方官ではなく世襲による在地領主としての地位を望むようになり、将軍もそれを認めるようになりました。

父が死ねば子や弟が守護職を継ぐ。それが任国における武士との結びつきを強め、守護の軍事力は飛躍的に強大化していき、やがてそれは、守護の大名化へと繋がっていきました。

さらに守護には、所領紛争への介入権や、幕府の判決を現地で強制執行する司法権が与えられます。観応の擾乱の全国波及に伴っては、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収できる半済の権利も与えられ、経済的権威も飛躍的に高まったのです。

こうして守護は、任国を世襲支配でき、経済力・軍事力・司法力を有する守護大名へと成長していきます。

やがて将軍の権力を凌ぐほどの勢力を持つようになった守護は、たとえ将軍の命令であっても、自らに利益のないものには従わなくなっていったのです。

そして、有事の際の軍事力を守護大名に頼っていた将軍は、その協力を得られないとたちまちに危機に瀕してしまう。これが、義昭をして援軍を「出さぬではない、出せぬのじゃ」と言わしめた戦国期の足利将軍家の軍事的な弱さの正体でした。

足利義昭と織田信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK

しかし、そのような危機的状況の中でも、室町時代後半は100年以上続きます。そこには、この時代特有の将軍と守護の持ちつ持たれつの関係があったのです。

幕府権力の保持に必要な軍事力を守護大名に依存する将軍。一方で、領国支配の正統性のために将軍の権威を必要とする守護大名。この相互依存関係こそが、室町幕府を長らえさせました。

そして、このような足利将軍家と守護大名の利害関係により成立していた室町時代を終わらしたのが、その関係に捉われない、織田信長であり豊臣秀吉であったのです。

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※参考文献
山田康弘著『足利将軍たちの戦国乱世』中公新書刊

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