朝ドラ【風、薫る】大山捨松が輝いた『鹿鳴館』はなぜ4年で終わった?西洋化への反感と風俗の乱れ

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朝ドラ【風、薫る】大山捨松が輝いた『鹿鳴館』はなぜ4年で終わった?西洋化への反感と風俗の乱れ

NHK朝の連続テレビ小説『風、薫る』大山捨松(多部未華子)が活躍し、直美(上坂樹里)もメイドとして働いていた『鹿鳴館』は、明治16年に完成・開館されました。

当時は、文明開花のシンボルとして注目を集め、現在でも「上流階級の男女が舞踏会を行う華やかな場所」というイメージがあります。

けれど、その豪華絢爛な時代は意外と短く、わずか4年間で終わってしまったのです。

「風、薫る」のドラマの世界を振り返りつつ、鹿鳴館における大山捨丸の実際の活躍や、繁栄と崩壊の理由を探ってみました。

鹿鳴館のメイドとして働いていた直美(NHK「風、薫る」公式サイトより)

米国で学んだ語学・知識が身に付いていたカリスマ

鹿鳴館でメイドデビューした直美。淡いグレーのスタンドカラーに襟元と袖口にレースがあしらわれた、たっぷりフレアーのロングワンピースのレトロな制服が可愛い。

舞踏会に訪れた海外ゲストのドレスも素敵ですが、入場時にどよめきが起こったのが大山捨松でした。

白いフリルをたっぷりと袖口にあしらったドレス・パールの耳飾り・オーガンジーのヘッド飾りが白い肌に映え優雅に踊る姿は一際目を引きつけます。

この当時、鹿鳴館で女性が着ているドレスは、当時ヨーロッパで流行していたバッスル・スタイル(※下図)。最初はヨーロッパから輸入していたそうです。

バッスルドレス(1880年代)WIKI

余談ですが、ドラマの中で直美が初めて捨松に会った時のドレスは、フリルだけでも両袖合わせて5mものレースを重ねたそう。

「鹿鳴館における捨松のカリスマ性」を表現するために、ドラマ美術部がこだわった渾身のデザインとか。

「X」でも、ゴージャスな捨松のドレスがいつも話題になっているのですが、さすがのこだわりぶりには感嘆の声があがっていました。

「鹿鳴館のカリスマ」らしい贅沢なレースをふんだんに使った衣装(NHK「風、薫る公式Xより)

捨松が、誰よりも一段と輝いているのは、ドレスだけではなく姿勢がとても美しいこと。(実際の捨松も長身で姿勢がきれいですよね)

さすがは12歳から渡米し語学や西洋の暮らし・マナー、立ち居振る舞いを身に付けただけある……と感じます。

さらに、捨松自身が学び掴み取った、生き方・意思の強さ・誇りの高さが、彼女の背筋をすっと伸ばし顎をクイっと上げさせているのでしょう。

鹿鳴館に登場した捨松と巌の夫妻(NHK「風、薫る」公式サイトより)

「ウェルカム トゥ 鹿鳴館。これが鹿鳴館よ」

以前、「日本初の看護婦学校を作った実在人物・大山捨松の生涯」をご紹介しましたが、史実でもドラマの中でも「鹿鳴館の華」として捨松は注目の的でした。

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けれど、ドラマの中では、そんな彼女に対して嫉妬した女性たちが陰口を言う場面も描かれています。

日本の外交官の妻たちでしょうか、捨松を「欧風芸者」と悪口三昧。けれども意地悪な表情のご婦人方は、ドレスも地味で所作も板についていないという描き方。

知識や経験値・ルックス・スタイル・才能・ハートの強さ・エレガントな所作・流暢な語学etc……何ひとつ叶わない捨松への嫉妬ゆえの悪口や中傷は、実際にあったのではないでしょうか。

「出る杭は打たれる(特に美しく才能溢れる女性への)」風潮は、明治時代も令和の今も、少しも変わっていないのを感じます。

捨松は直美に「ウェルカム トゥ 鹿鳴館。これが鹿鳴館よ」と言います。

そして、「渡米し語学も学問も身につけたのに、帰ってきたらこの国には女の私がそれを生かす場所がない。」と。

けれど、捨松は「鹿鳴館は、絢爛豪華なハリボテだけれど、使い方次第では私がやりたいことができる」といいます。

ドラマのセリフ通り、実際に捨松は、日本初のチャリティ・バザー『鹿鳴館慈善会』を開催。

そして、その売上金を全額病院に寄付、『日本初の看護婦養成所』を設立するなど、後世の日本に残る偉業を成し遂げています。

捨松はアメリカで看護婦の資格も取得、上流階級の女性たちが設立した貧困女性や子供たちを助ける『アワー・ソサイアティ(私たちの会)』で、ボランティア精神を学んだ人でもあります。

看護やボランティアを通じ女性の働く道を切り開くのが「This is my life」の捨松。ドラマでは、りんや直美に影響を与えて彼女らを「トレインド・ナース」への道へと導くのでしょうか……。

大山捨松公爵夫人wiki

華やかな社交の場として4年間続いた「鹿鳴館時代」

鹿鳴館は、明治16年(1883)に、長州藩における討幕運動の中心人物として活躍した井上馨によって建設されました。

イギリス人の建築技師、ジョサイア・コンドル(※)の代表作として有名ですが、創建時の姿形を伝える設計図面などの建築資料は少ないそうです。

着工は、明治13年(1880)頃、約2年間で完成した鹿鳴館は、客室、舞踏室、食堂、ビリヤード室などを備えた2階建ての洋館で、外務省が各省から集めた公費約14〜18万円(現在の数十億円ほどに相当するとか)を投じて建設されたものです。

国賓や外交官などを接待する華やかで贅沢な社交の場として使用された鹿鳴館を中心とし欧化主義が広まった明治16年(1883)〜明治20年(1887)の4年間は、『鹿鳴館時代』と呼ばれています。

明治16年11月28日には、1200人もの招待客を招いての祝宴が行われ、以降、接待や舞踏会、祝賀行事などを行う場所となりました。

※ジョサイア・コンドル:鹿鳴館のほかにも高輪の三菱関東閣・三田綱町の三井倶楽部・ニコライ堂などを手掛ける

「三井倶楽部」photo-ac

歴史的な有名人の仮装パーティー「ファンシー・ボール」

「鹿鳴館時代」に行われたイベントで有名なのが、明治20年4月20日に行われた仮装舞踏会「ファンシー・ボール」です。

鹿鳴館ではなく伊藤博文内閣総理大臣官邸で行われたもので、外交や条約改正とは直接関係のない催しだったものの、350人が招待されました。

仮装の衣装は、歴史的な西洋の衣装・欧州や東洋の民族衣装・日本の歴史上の人物や歌舞伎風に分かれていたそう。

伊藤博文夫妻はヴェネツィアの貴族、井上馨は三河萬歳芸人、山縣有朋が奇兵隊の隊士、鍋島直大夫妻は18世紀フランス貴族、渋沢栄一は歌舞伎の登場人物などの仮装をしたとか。

このイベントは、当時の国粋主義者の間で「亡国の兆し」と罵られ、海外への渡航歴がある勝海舟でさえ、憂国の感を深めました。

西洋文化の模倣ではなく、国内の基盤整備や独自の軍備の重要性」をと、説いた建白書を政府に提案したそうです。

仮装舞踏服姿の鍋島直大・栄子夫妻像(裏書に「伊藤侯爵家にて 舞踏フワンシーボールの時 佛國ノ昔の人の姿」とあり)文化遺産オンラインhttps://online.bunka.go.jp/heritages/detail/227469

西洋化への反感や風俗の乱れなどで4年間で衰退

幕末から明治時代へ。新旧交代の時代の文化や風俗に一つの方向性を示した鹿鳴館。

けれども、欧化政策・海外に媚びる卑屈な政治姿勢などに批判的な人々の反発を買うようになりました。

さらに、井上馨の政治的失脚、夜会などによる風俗の乱れ(伊藤博文が酔っ払った挙句の女性スキャンダルとか)なども原因で、華やかなりし「鹿鳴館時代」は約4年間で衰退したのです。

明治23年(1890)には閉鎖され、十五銀行へと土地や建物は払い下げとなり、明治27年(1894)には華族たちの親睦団体である華族会館に貸与することになります。その後、老朽化のために昭和15年(1949)に解体されました。

「せっかくの建築物を保存しよう」という声も上がったようですが、当時が戦時体制だったために、西洋風の社交の場に対する世間の風当たりや反感なども高まっていたことも、保存されず解体した理由にあるとか。

昭和の建築家・谷口吉郎は自身の手記で、「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」と綴っていました。

確かに、華やかな社交の場として活躍した建築物をこの目で見てみたかったと思います。

鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩江戸屋敷の表門は旧国宝に指定されていたものの、昭和20年の東京大空襲で焼失。

建物があった定刻ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれていたのですが、残念ながら再開発のため2022年11月に撤去されてしまいました。

「鹿鳴館」井上安治 public domain

「鹿鳴館時代」が終焉を告げた年に「看護の道へ」…

「日本赤十字篤志婦人会」制服 黒タフタ地(文化遺産オンライン https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/212746)

華やかな「鹿鳴館時代」が終焉を告げた明治20年(1887)

同年、日本赤十字社篤志看護婦人会という、日赤初のボランティア組織が設立しました。有栖川宮妃董子を初代幹事長とし、大山捨松も発起人の名簿にその名前を連ねています。

さらに同年、大関和も鈴木雅も28〜29歳で、「桜井女学校(別現在の女子学院)に新設された附属看護婦養成所に入学し、出会います。

ドラマの捨松いわく、キラキラと輝いた「はりぼての社交場・鹿鳴館」。その終焉とともに、大山捨松・大関和・鈴木雅の三人が福祉や看護への道を歩み始めたのかも……と、思うと感慨深いものがありますね。

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参考:
鹿鳴館の貴婦人大山捨松: 日本初の女子留学生 久野 明子著
鹿鳴館を創った男: お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯 畠山 けんじ著

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