驚愕の古代史!卑弥呼はなぜ女王になったのか?邪馬台国誕生の裏にあった異常気象と“倭国大乱”[後編]
邪馬台国の成立やその所在地については、江戸時代から現在に至るまで数多くの説が唱えられていますが、決定的な結論には至っていません。
しかし、邪馬台国成立以前の日本列島に「倭国大乱」と呼ばれる動乱期があったことは、中国史書の記述からも確かです。
本稿では[前編][後編]の2回に分けて、当時の倭と密接な関係にあった大陸の状況も踏まえながら、邪馬台国出現前夜、2世紀後半の倭国について考察します。
※[前編]の記事はこちら
驚愕の古代史!卑弥呼はなぜ女王になったのか?邪馬台国誕生の裏にあった異常気象と“倭国大乱”[前編][後編]では、戦乱や異常気象による飢饉から逃れる人々の移動と倭国大乱、そしてその先に生まれた新たな秩序である邪馬台国の成立について紐解いていきます。
異常気象が引き起こした「倭国大乱」タウポ火山の大噴火による異常気象の影響と黄巾の乱により、多くの難民が流入した北部九州や山陰など日本海側の国々は、その対応に追われたに違いありません。
なぜなら、稲作を中心とする倭国もまた多大な異常気象の影響を受けており、冷夏による凶作や飢饉の打撃は深刻だったと考えられるのです。
そのような状況下で、大量の難民が朝鮮半島から流入すればどうなるでしょうか。現代社会においても、難民を取り巻く問題は深刻なものがあり、生活習慣や文化の違いから地元住民との摩擦が生じる例は少なくありません。
また、国どうしという観点からも、政治的・経済的に優勢であった北部九州の勢力は、こうした混乱の中で徐々にその優位性を失い、出雲・吉備・タニハ(京都府北部)・畿内・尾張など、各地の勢力との衝突が生じたことでしょう。
こうした複合的な要因が連鎖し、列島規模の混乱へと発展した事態こそが、「倭国大乱」の実像であったと見ることができるのです。
青谷上寺地遺跡で見つかった大量の人骨の謎島根県鳥取市青谷町に「地下の弥生博物館」と称される青谷上寺地遺跡があります。弥生時代前期から古墳時代前期にわたるこの遺跡からは、農作業や土木作業に利用された鋤・鍬などの道具、漁業に用いられた船の破片や釣針、そして土器類など多くの遺物が発掘されています。
同遺跡が「弥生博物館」と言われるのは、出土品の保存状態の良さからです。遺跡周辺が低湿地帯で外気から遮断された状態にあるため、腐敗菌の繁殖が抑えられることにより、遺物の保存状態が良好に保たれたと考えられています。
同遺跡では、2000年(平成12年)の発掘調査で、集落を取り囲むように掘られた溝から弥生時代後期の人骨が見つかりました。その数は、おおよそ300点、110体分という多さで大きな話題を集めたのです。
さらに2023年(令和5年)に行われた発掘調査では、350点、約30人分の人骨が見つかり、その中には幼児の骨も確認されました。
この時に発見された人骨には、人々が亡くなった際の情報が多く残されていました。どの人骨にも人為的な傷跡が付いていたのです。
鋭利な刃物で斬られたと思われる顎の骨、硬い額の骨を割られた頭蓋骨。また、骨盤の一部である寛骨を貫いていたのは銅製の鏃(やじり)でした。その骨盤の後ろ側には切創の跡があることから、離れて場所から弓矢で射られ、倒れたところを斬りつけられたと考えられるのです。
そして、ほとんどの頭蓋骨には焼かれた痕跡がありました。殺害した後、意図的に頭部を切断し炎の中に投げ込んだ可能性があるのです。
これだけでも衝撃的ですが、さらにショッキングな事実が浮かび上がってきました。それは、これらの人骨からゲノムを抽出し解析したところ、ほとんどの人骨が渡来人系であることが判明したのです。
つまり、青谷上寺地遺跡の集落に暮らす人々とは血縁関係がない渡来系の人々がまとめて殺害され、遺体は溝に捨てられていたのでした。
鳥取県文化財局では、これらの人々を生口・奴婢とみる仮説を提示しています。しかし、大陸から逃れてきた難民たちが、青谷上寺地遺跡に暮らす人々との間に、何らかの軋轢が生じた結果、殺害された可能性も想像できるのです。
共生の道を模索し邪馬台国が誕生繰り返しになりますが、異常気象による打撃を受けていたのは、九州北部だけではなく、出雲・吉備・タニハ(京都府北部)・畿内・尾張といった各地もまた同様だったと考えられます。
長期にわたる争乱のなかで各地の勢力には、もはや軍事的対立を続ける余力は残されていなかったのではないでしょうか。
その結果、争いではなく調停と統合を模索する動きが生まれた可能性があります。それが、女王・卑弥呼を共立するという選択、すなわち邪馬台国連合の成立であったとも考えられるのです。
邪馬台国の有力候補地として知られる奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡は、3世紀前半に突如として出現する大規模都市遺跡です。その立地は四方を山に囲まれて奈良盆地内に位置し、自然災害の影響を受けにくい点でも政治的中心地として適していました。
この遺跡からは、九州から関東にいたる広範な地域の土器が出土しており、広域交流の拠点であったことがうかがえます。
また、後の前方後円墳の規範となる纏向石塚古墳をはじめとする纏向型前方後円墳や、卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳には、吉備地方に起源をもつ特殊器台が採用されています。
これらの考古学的事実は、纏向が広域的な交流を掌握しうる政治的中心地であり、邪馬台国連合の首都にふさわしい性格を備えていることを示しています。
そして、大規模噴火による異常気象という外的要因が、従来の地域対立を超えた新たな政治秩序の形成、すなわち邪馬台国誕生を後押ししたと考えられるのです。
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Piva, S. B. et al., Volcanic glass from the 1.8 ka Taupō eruption detected in Antarctic ice, Scientific Reports(2023)
瀧音能之監修 『発掘された日本神話』 宝島社新書
NHKスペシャル取材班著 『新・古代史』NHK出版新書
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