縄文文化はなぜ“東高西低”だったのか?西日本を襲った「巨大噴火」と「森の植生」の違い
縄文文化といえば、東日本にある青森の三内丸山遺跡や、新潟の火焔型土器などが有名ですが、西日本にはそのような繁栄の痕跡は殆ど見られません。その差は歴然。
なぜ縄文文化はこれほどまで「東高西低」だったのか。その裏には、日本列島を襲った悲劇と、森の植生という意外な理由がありました。
日本列島を網羅?縄文文化の境界線とは
日本で最初の文化と位置付けられる縄文文化は、「縄文土器を作り、それを使っていた文化」と定義づけられます。では、それは南北に長い日本列島のどの範囲に及んでいたのでしょうか。
最北の縄文土器としてはサハリンでの出土例がありますが、ここでは土器を作った痕跡はなく、文化としては伝わっていなかったとされています。
北海道では縄文遺跡が多く発見されている他、日本海に位置する礼文島からは、新潟県産のヒスイなども出土しています。そうしたことから、北海道の道北、道東の範囲が縄文文化の北限と言えるようです。
南は九州、そして沖縄本島に縄文遺跡が見られますが、九州より南にある南西諸島では、縄文文化の影響をうけつつも独自の変遷を重ねた様子が見られます。
縄文時代の後半には沖縄独自の縄文土器が誕生し、それは沖縄貝塚文化などと呼ばれます。そうしたことから九州南部、種子島・屋久島あたりまでが、縄文文化の範囲だと考えられています。
南の縄文は巨大噴火で壊滅したこのように、縄文人が暮らしていた痕跡は北海道から九州南部まで見られますが、その遺跡数や規模、人口は、圧倒的に東日本に偏っています。では、縄文文化の始まりは東日本にあり、そこで発展したのでしょうか? 実はそうではありません。
青森県の大平山元遺跡で約1万6500年前の最古の土器が見つかっていますが、ほぼ同時期、九州の南端でも人々は豊かな文化を築いていました。
鹿児島県の上野原遺跡では、東北にも引けを取らない大型集落が形成され、独自の土器や土偶が作られていました。南九州は当時から温暖な気候で、鹿児島県のみならず熊本県、宮崎県の南部でも同様の文化が築かれました。
鹿児島県上野原遺跡 出典:WIKIMEDIA COMMONS
しかし、その繁栄は突如として断絶します。原因は、今から約7300年前の鬼界カルデラの超巨大噴火です。鬼界カルデラは、鹿児島市から南へ約100kmの海底にある火山で、現在も噴煙を上げ続ける活火山です。この噴火が、当時の日本列島の運命を大きく変えました。
この大噴火で、噴煙は上空3万mまで立ち昇り、火山灰は偏西風に運ばれて遠く東北地方南部まで達しました。火砕流は海を滑り、屋久島や種子島を焼き尽くし、薩摩半島や大隅半島にまで到達します。そして降り注いだ「アカホヤ火山灰」は、南九州や四国の縄文人の生活を壊滅的なものにしたのです。
このアカホヤ火山灰は、雨が降るとコンクリートのように固くなる性質があり、山や海の生態系を大きく変えてしまいました。その後、600〜900年もの間 は、噴火前の生態系に戻ることはなかったと言われています。こうして縄文時代草創期から繁栄していた九州南部の縄文文化は一度全滅し、その後長い時間を経て、別の地域から縄文人が移り住んだと考えられています。
繁栄の鍵は「森の植生」にあり?では、そのほかの西日本と東日本との繁栄の差はどこから生じたのでしょうか。その理由の一つとされているのが、西日本の照葉樹林と東日本の落葉広葉樹林という植生の違いにあると言われています。
照葉樹林は温暖で雨が多い地域に発達することから、日本列島では西日本の太平洋側、九州などの地域に広く分布しています。照葉樹林は枝葉が多く茂るため、森の中は常に薄暗く、湿った環境になりやすいという特徴があります。
縄文人は木の実を主食としてましたが、その木の実の生産量は東日本の落葉広葉樹林とはそう変わりがなかったとされています。ところが、冬に葉を落とす落葉広葉樹林では、林床植物と呼ばれるワラビやゼンマイ、ヤマイモ、キノコなどが育ちます。それに対して一年中鬱蒼としている照葉樹林では、そうした植物が育たないのです。
また縄文人が三内丸山遺跡で、直径1m以上のクリの木を建物の柱にしていたように、落葉樹林に多いクリの木は、割りやすく加工が容易で、湿度に強く腐りにくいという特性があります。当時は建物だけでなく、水場を造ったり、器などの生活用具、また薪としても利用していました。一方で、照葉樹林のカシやクスノキなどはとても堅く、金属器を持たない縄文人にとっては扱いづらかったようです。
このような植生の違いが、食料問題や生活のあり方に影響し、東日本では人口が増え華々しい縄文土器の開花へ繋がり、西日本では小さな集落で緩やかに人口が増えていったと考えられています。
東日本の縄文文化は飛躍的に発展しましたが、その反動もまた大きかったと言われます。 やがて気候が寒冷化し、森から充分な食料を得られなくなると、大きな集落を維持することが難しくなり、人々は分散して生活するようになり人口も減っていきました。
大きな変化が無かった西日本は、その後の大陸から入ってきた文化を着実に根付かせ、弥生文化の担い手となったと考えられています。
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・縄文時代の不思議と謎 山田康弘/実業之日本社
・縄文時代を知るための110問題 勅使河原彰/新泉社
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