朝ドラ「風、薫る」りんが出会った“厄介な患者”の正体…園部弥一郎(野添義弘)のモデル・長田銈太郎の生涯

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朝ドラ「風、薫る」りんが出会った“厄介な患者”の正体…園部弥一郎(野添義弘)のモデル・長田銈太郎の生涯

朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。りんが実習で初めて受け持つこととなった、園部弥一郎(野添義弘)もその1人です。モデルとなったのが、明治の官僚・長田銈太郎(おさだけいたろう)という人物でした。

銈太郎は幕府の直参旗本の家に生まれながら、剣術と語学を習得。近代兵学にも通じた人物として将来を嘱望されていました。

しかし明治維新によって世情は一変。新時代で銈太郎は近代国家を支える道を選ぶこととなります。

銈太郎は持ち前の交渉力と語学力、調整力を活かして活躍。官僚としてだけでなく、語学や教育業界でも力を発揮しました。しかし中央政界で足場を築いた、と思った時、銈太郎にまさかの事態が訪れます。

長田銈太郎は何を思い、何を考え、どのような国家を目指して生きたのでしょうか。

長田銈太郎の生涯について見ていきましょう。

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※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。

園部弥一郎。モデルとなったのは明治に実在した長田銈太郎である。

名門武家一族に生まれ、近代への橋渡しを行う

嘉永2(1849)年7月27日、長田銈太郎は、駿河国で幕府直参旗本・長田歓十郎正美の長男として生を受けました。

長田氏は、桓武平氏の流れを汲む武家です。

古くは源義朝平清盛に仕えた長田忠致を輩出し、江戸時代にはその一族の末裔が徳川家康に仕えていました。

銈太郎の生まれた家は、その長田氏の宗家という位置付けです。一族からは旗本の永井氏(永井尚志など)を輩出する名族でした。

銈太郎は幼い頃から文武に奨励する少年だったようです。

安政2(1855)年、7歳となった銈太郎は江戸に出府。幕府の講武所で剣術を習い始めます。

文久元(1861)年には幕府の蕃書調所開成所、のちの東京大学の源流)でフランス語を習い始めました。

文久3(1863)年には開成所のフランス語助教を拝命。のちに教授にまで上り詰めました。

当時の日本において、銈太郎が語学においては随一のレベルにあったことは間違いありません。

慶応元(1865)年には、フランス全権公使レオン・ロッシュの通訳に就任。関西地方視察旅行にも随行して、伊藤博文山縣有朋らと面識を得ました。

翌慶応2(1866)年、銈太郎は横浜仏語伝習所陸軍士官学校の前身)に入学。近代戦の士官候補生として学びました。

慶応3(1867)年には、幕府内で大番(将軍の親衛隊)格・歩兵指図役頭取に就任。陸軍士官として将来を期待されていました。

しかし同年10月、将軍・徳川慶喜大政奉還を決断。260年以上続いた江戸幕府は終焉を迎えます。

旧幕府は翌慶応4(1868)年1月の鳥羽・伏見の戦いで薩長新政府にも敗北。江戸にも戦が迫り始めます。

このとき、銈太郎は開成所頭取に就任。同所を明治新政府に引き渡すべく行動しています。

開成所の後続組織・開成学校。のちに東京大学の源流となった。銈太郎の功績は計り知れない。

新時代明治において残した多分野での業績

明治維新後、銈太郎は自身の力を未来を切り開いていくこととなります。

江戸城無血開城後、銈太郎は静岡に移住。駿府に移封された徳川家の駿河府中藩のもとで活動していました。

静岡学問所においてフランス語教授筆頭格に就任。教授には中村正直外山正一らがいました。

やがて銈太郎は明治政府に出仕。かつての経歴や能力を買われて兵部省で働き始めます。

明治4(1871)年には、アメリカに派遣。これが翌明治5(1872)年の外交官となる契機となりました。

銈太郎はフランスの日本公使館に赴任。明治7(1874)年には日本に帰国し、外務少丞、外務少書記官と出世の階段を登っていきます。

明治11(1878)年にはロシアの日本公使館に赴任。駐ロシア公使心得となって日本の大法的立場となります。

明治15(1882)年には再び帰国。宮内省に所属し、宮内権大書記官兼太政官権大書記官を拝命します。

同省では式部官(外交儀礼担当)となって、明治天皇の側近となって通訳を務めるに至りました。

当時の日本においては、国家を代表する人材の一人として期待されていたことがわかりますね。

やがて銈太郎は、民間においても教育事業の普及を担うこととなります。

明治19(1886)年、東京仏学校法政大学の前身組織)の設立に参加。理事となります。

同年には山縣有朋の計らいによって内務省参事官を拝命。政治の中心的位置で国家に関わりました。

明治20(1887)年には、モーリス・ブロックの著書を銈太郎が翻訳した『初学経済問答』が刊行。同書は経済知識の導入に関わる翻訳であり、銈太郎の関心が外交語学だけに限られなかったことを示します。

西洋の知識を日本語へ移し替える仕事も、明治前期の知識人・官僚に課せられた重要な役割でした。

明治22(1889)年、愛知県知事に勅任の内命が降ります。しかし赴任前、銈太郎は不幸な事故に遭遇しました。

この後、銈太郎は自宅で療養。派遣された看護婦が大関和一ノ瀬りんのモデル)でした。

ドラマ「風、薫る」と同様、このときの銈太郎は傷病者でありながら、養生せずに大関を困らせます。

しかしある日、大関和が黒羽藩の家老であった大関弾右衛門の娘であるとわかると変化がありました。

銈太郎は過去、弾右衛門にフランス語の通訳をしたことがあり、それを懐かしく思ったとされます。

相変わらず看護を受け付けなかったものの、以降、銈太郎の大関和に対する態度は柔らかくなりました。

しかし看護の甲斐なく、同年3月31日、銈太郎は39歳(41歳とも伝わる)の生涯を閉じます。

銈太郎の葬儀の日、大関和は看護服で参列。葬列に看護婦が制服で付き添うようになったのは、これが初めてだったとされます。

銈太郎がもし長く生きていれば、外交・宮廷儀礼・教育の分野でさらに大きな役割を担った人物でした。

長田銈太郎の生涯は、江戸から明治へ、日本が世界と向き合うための「言葉の橋」を架けた人物だったと言えるでしょう。

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