朝ドラ「風、薫る」勝海舟(片岡鶴太郎)と医療の意外な関係…日本初の看護学校を支えた知られざる功績
朝ドラ「風、薫る」の中では、勝海舟(片岡鶴太郎)は主要登場人物の一人として登場します。実際に勝海舟がヒロインたちと接点を持っていたかは判然としません。
しかし明治初期の医療関係者と近く、近代医学の発展に貢献したことは確かです。
明治の海舟は医療関係者とどう関わり、どう貢献し、どのように現代の医学につながる道を繋いだのでしょうか。
勝海舟と医療とのつながりについて見ていきましょう。
※関連記事:
敵がいてこそ仕事はできる!幕末〜明治時代を駆け抜けた勝海舟の痛快な格言
明治維新での再出発!勝海舟、医療との関わり
勝海舟のイメージは、主に幕末期の江戸の無血開城で語られてきました。
しかし明治に入ってからの海舟も、旧幕臣として明治新政府で重きをなしています。
明治2(1869)年7月18日、勝は兵部省の要職である兵部大丞を拝命。同年8月13日には外務省の外務大丞となりました。
この任官劇は、海舟の力量が政府から評価された結果です。同時に明治政府に人材が乏しかった証左でもありました。
明治5(1872)年5月10日、海舟は海軍大輔を拝命。海軍省の実務方のトップとして、近代海軍の育成を担う立場となりました。
翌明治6(1873)年10月25日には、参議に選任。さらに海軍卿を拝命して省庁のトップに上り詰めました。
明治初期の省庁は、上から卿(大臣)→大輔→少輔→大丞→少丞となります。8海舟はわずか数年で、海軍を取り仕切る立場となっていました。
悪い見方をすれば、旧幕臣の立場を捨てて明治新政府での栄達を掴んだーと言われるでしょう。いえいえ、決してそんなことはありません。
海舟は旧幕臣の取り立てにも熱心に取り組んでいました。
明治5(1872)年、蘭方医・戸塚文海が明治政府に出仕。戸塚は海舟にとって幕末の長崎伝習所からの旧知の人間でした。
戸塚はのちに海軍軍医総監や海軍医務局長などの要職を歴任。とくに海軍医務局は海軍病院や艦隊の医務室、軍医学校を所管する組織でした。
海舟にとっては、旧幕臣の登用というだけではなく、医療人材の引き上げと育成も喫緊の課題であったと思われます。
公職を辞し、病院開設の資金援助を行う
海舟の政府の一員としての日々は、突如として終わりを迎えます。
明治8(1875)年4月、海舟は立法府の役職である元老院議官に移動。しかし海舟は同年11月に台湾出兵への抗議として同職を辞職しています。
政府の公職を辞することは、政治的権力を失うことにも直結していました。しかし海舟は政治的闘争とは距離を置き、むしろ自らの道を模索していきます。
下野後、海舟はある病院の設立に深く関与することとなりました。
明治15(1882)年、かつて海軍省の部下であった戸塚文海と高木兼寛が芝の天光院に有志共立東京病院を開設。同院は貧しい患者に治療を施す場所でした。
当時の海舟は徳川家の財産を管理する立場です。
二人の事業に共鳴した海舟は、病院開設のための資金援助を実施。払い下げられた愛宕下の旧東京府病院跡の改修が行われ、明治17(1884)年には同地に病院移転を果たします。
翌明治18(1885)年、日本初の看護学校である看護婦教育所が同院に付設される形で設立。アメリカ人宣教師・リードらによる看護教育が始まります。
ここでは朝ドラ「風、薫る」でも描かれた、陸軍卿・大山巌の夫人である大山捨松ら夫人慈善会のバザーによる後援もありました。
明治20(1887)年、同院は総裁となった昭憲皇太后から「慈恵」の名を賜り、病院は東京慈恵医院へと改称されました。
翌明治21(1888)年、看護婦教育所から第1回卒業生5名が卒業。日本初となるトレインドナースが社会に送り出されました。
海舟の資金援助は、近代医学を支え多くの人材を輩出することとなったのです。
海舟は自分自身で看護制度を築き上げた人ではありません。しかし資金援助と、かつての部下たちを間接的にも取り立て、その業績に貢献していました。
日本医療において、海舟は表の主役ではありませんが、背後から土台を支えた重要人物であったことは確かなのです。
※関連記事:
敵がいてこそ仕事はできる!幕末〜明治時代を駆け抜けた勝海舟の痛快な格言日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
