【豊臣兄弟!】なぜ秀吉は無断撤退?その後どうなる?史実だった柴田勝家との喧嘩・信長激怒事件の結末
羽柴秀吉(池松壮亮)にとって人生最大級の窮地と言えば、金ヶ崎の退口と小牧・長久手の戦い、そして手取川の合戦でしょうか(※諸説あり)。
金ヶ崎では文字通り生命の危機に陥り、小牧・長久手では政権が揺らぎかねない難局を迎え、そして手取川では織田信長(小栗旬)の逆鱗に触れてしまったのです。
というのも、実は秀吉が作戦をめぐって総大将の柴田勝家(山口馬木也)と喧嘩し、勝手に軍勢を引き上げてしまったからでした。
いきり立つ勝家。秀吉と何を揉めたのだろうか。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第19回「過去からの刺客」でも勝家との喧嘩シーンが描かれましたね。そして次回、秀吉が大ピンチに陥ります……。
なぜ秀吉はそんなことをしたのでしょうか。今回は『信長公記』より、勝家と喧嘩して信長の逆鱗に触れた事件について紹介したいと思います。
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上杉謙信の雄姿。月岡芳年「芳年武者旡類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎」
八月八日 柴田修理亮 大将として北国へ御人数被出候 滝川左近 羽柴筑前守 惟住五郎左衛門 斎藤新五 氏家左京亮 伊賀伊賀守 稲葉伊予 不破河内守 前田又左衛門 佐々内蔵介 原彦二郎 金森五郎八 若狭衆 賀州へ乱入添川手取川打越小松村本折村阿多賀富樫所々焼払在陣也 羽柴筑前御届をも不申上帰陣仕候段曲事之由被成御逆鱗迷惑申され候……
※『信長公記』巻之十 (天正五年丁丑)六「柴田北国相働之事」より
時は天正5年(1577年)8月8日。柴田修理亮(しゅりのすけ。勝家)は、上杉謙信に攻められた能登国七尾城(石川県七尾市)の長続連(ちょう つぐつら)を救援するべく、兵を起こしました。
総勢4万を率いて北ノ庄城(福井県福井市)から出陣した武将たちの顔ぶれは以下の通りです。
滝川一益(左近/猪塚健太) 羽柴秀吉(筑前守) 丹羽長秀(惟住五郎左衛門/池田鉄洋) 斎藤利治(新五) 氏家直昌(直元の子) 安藤守就(伊賀伊賀守/田中哲司) 稲葉良通(伊予/嶋尾康史) 不破光治(河内守) 前田利家(又左衛門/大東駿介) 佐々成政(内蔵介/白洲迅) 原長頼(彦二郎) 金森長近(五郎八) ほか若狭衆※『長家家譜』によると、このほか長谷川秀一・徳山則秀・堀秀政らが参陣しました。
加賀国(石川県南部)へと乱入した勝家一行は、添川(尾添川?)と手取川(てどりがわ)を越えて、小松村・本折村・阿多賀(安宅。ここまで小松市)・富樫(金沢市)と各地を焼き払いながら進撃します。
※北ノ庄城から向かった場合、小松市の方が手取川より手前ですが、記述に際しては時系列よりも印象(いかに川越えが大変だったか)を重視したのでしょうか。
しかし大変な苦労の末にここまでやって来たというのに、一体何を思ったのか、いきなり秀吉が軍勢を引き上げてしまいました。
『信長公記』では秀吉の振る舞いについて「御届をも不申上(もうしあげず)帰陣仕候段(きじんつかまつりそうろうだん)曲事之由(くせごとのよし)」つまり「御届を申し上げず=許可なく勝手に帰陣してしまった件は、けしからん」と非難しています。
もちろん信長だって大激怒です。『信長公記』には「被成御逆鱗(ごげきりんなされ)迷惑申され候」とあり、信長が逆鱗に触れられて激怒し、周囲が大変迷惑したことが記されていました。
さぁ、果たして秀吉はどうなってしまうのでしょうか?
一体なぜ?すぐに謹慎を解かれた秀吉……どうもなりませんでした。
信長は秀吉に謹慎を命じたものの間もなく解除され、二度目の謀叛を起こした松永久秀(竹中直人)の討伐に出陣しています。
その後も天正5年(1577年)の内に中国攻めへと出陣しており、軍令違反の戦線離脱はうやむやにされたのでした。
そもそもなぜ秀吉が勝家と喧嘩し、任務放棄までしてしまったのか?当時の史料に詳しい事情を記したものはありません。
『武功夜話』によると、勝家が秀吉に武功を立てさせまいと後陣に回したことが不満だったからとか、松永久秀の不穏な動きを察知して退却を進言したのに聞き入れられなかったから……などと言われています。
しかしこれは後知恵であり、戦場において後陣を支えるのも重要な任務ですし、まして北陸にいた秀吉だけが畿内の正確な情報をキャッチできたというのも現実的ではありません。
とは言え他に秀吉が任務放棄した理由について詳しく記したものはなく、いまだ謎のままとなっているようです。
いっぽう勝家たちは七尾城が陥落したことを知って撤退したものの、浮足立ったところを上杉謙信に突かれ、鯰江貞利(なまずえ さだとし)はじめ死傷者1千余、増水していた手取川で多数の溺死者を出してしまいました。
時に天正5年(1577年)9月23日、これが後世に伝わる手取川の合戦です。この惨敗をあざ笑って、こんな落首が詠まれたと言います。
上杉に 逢うては織田も 手取川 はねる謙信 逃げるとぶ長(信長)
【意訳】上杉の武威を前にしては、さすがの織田も赤子の手をとるように負けてしまった。謙信がはねるように攻めかかると、信長は飛ぶように逃げ帰って行った。
信長は出陣していませんでしたが、人々は「あの信長が飛んで逃げ帰る」光景を思い浮かべて、留飲を下げたことでしょう。
今回は秀吉の三大危機(諸説あり)に数えられる信長の逆鱗について紹介してきました。一歩間違えば切腹だってあり得た窮地を、秀吉がどうやって乗り切ったのかは未だに謎のままです。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、秀吉はどのように戦列復帰するのでしょうか。次回第19回「本物の平蜘蛛」で描かれることでしょう。
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中川太古 訳『現代語訳 信長公記』中経新人物文庫〉、2013年10月 乃至政彦『謙信×信長 手取川の真実』PHP新書、2023年5月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


