朝ドラ「風、薫る」尊王攘夷の志士が国際結婚…千佳子の夫・和泉元彦のモデルとされる三宮義胤の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。
和泉千佳子の夫・和泉元彦侯爵もその1人です。モデルとして重ねて見ることができるのが、幕末から明治を生きた尊王攘夷派の志士で、のちに外務官僚・宮内官僚となった三宮義胤(さんのみや・よしたね)という人物。
ただし、ドラマ上の「侯爵」という設定は創作色が強く、史実の三宮義胤は男爵となった人物です。三宮義胤は、幕末の近江国に生まれながら、若い頃から勤王運動に身を投じます。
王政復古の時期には高野山で挙兵。やがて戊辰戦争にも加わり、新政府の時代へと踏み出しました。時代の転換に伴い、義胤は新国家を支える官僚へと転身。
英国人女性アレシーア・レイノアとの国際結婚、そして妻・八重野の病と看護婦 大関和との出会いです。三宮義胤の生涯について見ていきましょう。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
寺院の息子、尊皇攘夷運動に身を投じる
天保14(1844)年、三宮義胤は近江国滋賀郡真野村(現在の滋賀県大津市付近)で真宗正源寺住職・三上円海の長男として生を受けました。
嘉永6(1853)年、浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊が来航。日本は攘夷の機運が高まっていきました。
若い頃の義胤は三上兵部と称して、尊皇攘夷運動に傾倒。攘夷派の頼三樹三郎や梅田雲浜といった志士と交流し、朝廷を中心とする新しい政治秩序を求める動きに身を置きます。
慶応3(1867)年10月には大政奉還が起こり、江戸幕府が終焉を迎えました。12月には王政復古の大号令が発布され、新時代の足音が聞こえ始めてきます。
同年、義胤は公家の鷲尾隆聚とともに高野山で挙兵。翌慶応4(1868)年からからの戊辰戦争では、仁和寺宮の小軍監として北越、奥羽方面に転戦しました。
ここで義胤は、実際に戦場を経験した行動派の志士として歩みを進めています。
明治2(1869)年、義胤は明治政府に出仕。賞典禄50石が下賜され、兵部権少丞として軍事行政に関わります。
外国への赴任で、生涯の伴侶となる三宮八重野と出会う
かつて攘夷派であった義胤ですが、外国での活動はその後の人生を決定づけました。
明治3(1870)年10月、義胤は東伏見宮嘉彰親王の英国留学に随行。近代国家の一員として、早くから海外経験を積んでいます。
英国滞在中、義胤はアレシーア・レイノア(日本名:三宮八重野)という英国人女性と出会って結婚。明治7(1874)年のことでした。
かつて外国を忌み嫌っていた攘夷派であった義胤が、外国に駐在し、外国人女性と結婚したことになります。
当時の日本において、国際結婚はまだ珍しいものでした。とくに政府高官や宮中に関わる人物の結婚となれば、周囲の目も厳しかったはずです。
義胤の結婚は、個人の選択であると同時に、明治日本が西洋とどのように向き合うかを象徴する出来事でもありました。
明治10(1877)年、義胤は外務省に移り、2等書記官としてドイツ公使館に勤務しました。
明治13(1880)年には日本に帰国。翌明治14(1881)年の英国両皇孫来日時には、外務省権少書記官として東伏見宮嘉彰親王やアーネスト・サトウらとともに、接遇に関わりました。
明治16(1883)年には外務省から宮内省へ移動。外交の現場を知る人物として、宮中と外国との接点を支える役割を担うことになったのです。
義胤は、宮内省で大書記官などを経て、明治28(1895)年に式部長を拝命。宮中儀礼や内外の賓客対応に関わる立場となりました。
幕末に志士として奔走した青年が、明治国家の宮中儀礼を支える立場に至ったことは、時代の変化をよく物語っています。
一方で、義胤の妻八重野は明治日本の上流社会で西洋式の服装や社交の知識を伝える存在となりました。朝ドラ「風、薫る」に登場する和泉千佳子は、この三宮八重野をモデルにしていると紹介されることが多く、ドラマでは史実をもとにしつつ、日本人の侯爵夫人として脚色されています。
朝ドラ【風、薫る】りんが向き合う“気高き患者”…和泉千佳子(仲間由紀恵)の実在モデル・三宮八重野の実像明治21(1888)年、八重野は乳がんに罹患。帝国大学医科大学第一医院において手術を受けたとされます。
このとき看護に関わったのが、のちに大関和でした。
ドラマの一ノ瀬りんと和泉千佳子の関係には、この史実が反映されていると考えられます。ただし、義胤が病床の妻にどのような言葉をかけたのか、その詳しい記録は確認しにくいものです。
しかし確かなことがあります。
その後、八重野は慈善活動に邁進し、義胤自身も明治23(1890)年に日本赤十字社特別社員証を授与されるなどしています。
このときの大関和との関わりが、彼らのその後の行動に影響を与え、日本の慈善活動に寄与したと考えられます。
男爵への叙任
要職を歴任してきた義胤に、長年の功績が報われる時が訪れます。
明治29(1896)年、義胤は男爵に叙任。幕末の功績や明治政府での官歴、宮内省での働きが評価された結果と見てよいでしょう。
「風、薫る」では、和泉元彦(義胤がモデル)が「侯爵」として描かれていましたが、史実の三宮義胤は男爵です。
爵位は上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と続きます。男爵は一番下だ、と思われるかも知れません。
しかしいずれも華族として扱われており、学習院を中心とする教育面での優遇や、貴族院制度との関わりがありました(ただし男爵は自動的に貴族院議員となるのではなく、同爵者による互選で選ばれる仕組みでした)。
しかし義胤は、叙爵後も変わらず職務に精励していきます。
結果、宮内省式部長として10年余りを務めました。この時の明治国家は、条約改正、日清戦争、国際儀礼の整備など、外へ向かって国家の姿を示す時代に入っていました。
そのなかで義胤は、かつて幕末の志士でありながら、国際儀礼を担う宮内官僚として働き続けたのです。
明治38(1905)年8月14日、義胤は世を去りました。享年62。
近江の寺院に生まれた青年が、尊皇攘夷を志して生き、その先に新時代の官僚として花開き、愛する人を外国から迎えた…
数奇でいて、移り変わりが激しいものの、そこには幕末から明治を経験した日本人の価値観そのものが詰まっています。
三宮義胤の生涯は、幕末の情熱と明治の国際化をつないだ、静かな架け橋のような歩みだったと言えるでしょう。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
