『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜藤堂高虎と井伊家が封じた西国大名の進軍路【後編】
江戸に幕府を開いた徳川家康(演:松下洸平)は、京都防衛のために二条城・金戒光明寺・知恩院というトライアングル防御陣を設けました。
そして京都を固めたうえで、江戸幕府を守る第二段の軍事配置を進めていきます。
[後編]では、その鍵を握る井伊直政・直孝父子、そして藤堂高虎(演:佳久創)。そして彼らを登用した家康の周到なまでの防御思想を紹介します。
[前編]の記事はこちら↓
『豊臣兄弟!』秀吉亡き後、徳川家康が恐れた“最悪の事態” 〜京都を固めた家康のトライアングル防衛線【前編】
徳川最強軍団。井伊直政と赤備えの系譜
京都に二条城を築き、金戒光明寺、知恩院を整備して、西国への備えとした徳川家康。しかし、家康はそれだけでは満足しませんでした。幕府の本拠である江戸を守るため、さらに周到な軍事配置を進めていきます。
その要となったのが、家康の重臣・井伊直政と直孝父子、そして藤堂高虎でした。
井伊直政・直孝は、『豊臣兄弟!』にはおそらく登場しないでしょう。しかし、井伊直政といえば、本多忠勝・榊原康政・酒井忠次と並ぶ徳川四天王、しかもその筆頭格です。徳川家を語るうえで、欠かすことのできない人物なのです。
とはいえ、直政の生涯を詳しく語り始めると、それだけで一篇の記事になってしまいます。ここでは要点だけを押さえておきましょう。
直政は1561年(永禄4年)、今川家の重臣・井伊直親の子として生まれました。しかし直親は、今川氏真に謀反を疑われて殺害されます。当時、直政はわずか2歳。家督は一時的に井伊直虎が継ぐことになりました。そう、「女城主・直虎」です。
1575年(天正2年)、直政は15歳で家康に出仕。その7年後には旗本部隊の侍大将に抜擢されます。この時、直政の配下には旧武田家の精鋭武士団が配属されました。これが、有名な「井伊の赤備え」の始まりです。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる天下統一ののち、家康は関東に移されます。この時、直政は上野・箕輪城12万石を与えられます。これは当時の徳川家臣団の中でも最大級の石高でした。
直政は、徳川家中で他の家臣たちに抜きん出て、出世街道を歩んでいきます。よく言われているのは、直政が家康の寵童であったということですが、それは何とも言えません。ただ事実としては、直政は戦場では勇猛果敢、調略などの政治手段にも長けており、その総合的な才覚を家康が高く評価していたのは確かなようです。
そんな直政は、1602年(慶長7年)2月、関ケ原の戦いで受けた傷がもとで、佐和山城(15万石)にてその生涯を閉じます。折しも、新城・彦根城の築城が始まった頃でした。
直政の跡を継いだのが長男の直勝です。直勝は彦根城築城を引き継ぎ、1606年(慶長11年)に完成させます。しかし家臣団の統制に苦しみ、幕命により上野・安中3万石へ移封。代わって弟の直孝が彦根15万石を継ぐことになりました。
この直孝こそが大坂の陣で赤備えを率いて大活躍し、井伊家を譜代大名で随一35万石の家格へと押し上げた人物なのです。
天下人に愛された男、藤堂高虎の異例の出世藤堂高虎の生涯については、本サイトでも多く語られていますので、ここでは要点に絞りましょう。高虎は『豊臣兄弟!』で描かれるように、実直で一途、そして忠誠心に厚い人物だったようです。だからこそ、天下人たちに見いだされました。
豊臣秀長(演:仲野太賀)、秀吉(演:池松壮亮)、そして家康・秀忠と、仕えた主君のすべてから重用され続けた稀有な武将です。
生まれた時は、武士の家柄であったにもかかわらず、農民同然の境遇にあったとされる高虎。
しかし、秀長により2万石の大名に取り立てられ、秀吉からは伊予8万石を与えられます。秀吉没後には、家康のもとで今治城12万石を加増され20万石の大名となりました。
その後、徳川家の重臣となった高虎は、1608年(慶長13年)には伊賀・伊勢の22万石を加増のうえ移封され、津藩主となります。そして大坂の陣での功績を認められ、秀忠からさらに5万石を加増され、外様でありながら32万石の大名となったのです。
中山道・東海道を封鎖。彦根・津・名古屋の防衛ライン家康は、西国の雄藩が京都を押さえ、そのまま江戸へ進軍するという最悪の事態を想定していました。そのために、井伊家の彦根城、藤堂家の津城、さらに尾張徳川家の名古屋城という防御ラインを構築しました。
西国の反乱軍が京都を抑え江戸を目指すとなると、その進軍路は大軍ゆえに中山道・東海道になります。中山道には彦根城、東海道には津城。ここでまず西国軍は足止めされます。両藩合わせて67万石、動員兵力は約2万。しかも両城は堅城として名高く、容易には落とせません。
仮に西国雄藩の総石高を300万石としても、動員できる兵数は約9万。彼らは遠征軍なので自領に留守の兵は残して置かなければなりません。すると、多く見積もっても兵力は7万くらい。
その兵力で彦根城と津城を包囲したとしても、そこに名古屋城を出兵した尾張藩60万石の兵(最大で1万8千人)が背後から襲い掛かってきます。これでは、反乱軍に勝機はほとんどありません。加えて、関東から幕府軍が西上すれば、挟撃によって壊滅は必至となります。まさに、家康が描いた「詰みの布陣」でした。
しかし残念ながら、江戸防衛のための防御ラインが実戦で試されることはありませんでした。260年後の幕末、鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争において、彦根藩・津藩・尾張藩はいずれも新政府側に与します。
家康が築き上げた鉄壁の西国防御ラインは、機能することなく歴史の舞台から消えていったのです。
※参考文献
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
