『豊臣兄弟!』松永久秀(竹中直人)は本当に悪人だったのか?家臣たちに慕われた戦国武将の意外な素顔
『豊臣兄弟!』でも描き切れないであろう人物の一人が、第20回「本物の平蜘蛛」で爆死という壮絶な最期を遂げた松永久秀(演:竹中直人)です。
梟雄や悪人、そして二度にわたり織田信長に離反したことから裏切り者というイメージが強い久秀ですが、実は家臣たちと強い信頼関係で結ばれていたことがわかってきました。
今回は、久秀が家臣たちとどのような信頼関係を築いていたのか。その人物像を最後の戦いである信貴山城の戦いを通じて紐解いていきます。
※「豊臣兄弟!」関連記事:
【豊臣兄弟!】市川團子が演じる信長最愛の小姓…18歳で討死した美少年・森乱(森蘭丸)の短すぎた人生 【豊臣兄弟!】次回「風雲!竹田城」を予習。小一郎(仲野太賀)が総大将デビューで覚醒?激闘の顛末を紹介 『豊臣兄弟!』ドラマでは描き切れなかった松永久秀(竹中直人)…平蜘蛛と爆死だけでは終わらない本当の実像
松永久秀と平蜘蛛茶釜。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
二度目の謀反と断固たる拒絶1577年(天正5年)8月、松永久秀は織田信長に再び背きました。石山本願寺を攻めるため詰めていた天王寺砦を焼き払うと、息子の久通を引き連れ信貴山城に立て籠ったのです。
久秀の最初の謀反は、1572年(元亀3年)のことでした。将軍足利義昭が画策する信長包囲網に参加したものの、その盟主格である武田信玄の死などにより包囲網は瓦解。久秀は本拠の一つ多聞城を信長に差し出し、降伏のうえ命は助けられました。
竹中直人演じる松永久秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
そして再びの謀反。信長は堺代官・松井友閑を使者として信貴山城へ向かわせます。信長の意を受けた友閑は、『織田軍記』によれば、「何ようの仔細か、存分申上げ候へ、委細聞届けせれ、御裁許あるべきの由」、つまり「きちんと説明すれば信長公はきっと許してくれる」と述べたと記されています。
この信長の処置は、二度まで裏切った久秀に対して異例のものであり、それだけ久秀の能力を買っていたとの説もあります。しかし、久秀は信長の説得を断固拒絶したのです。
信貴山城における家臣たちの壮絶な戦い久秀の態度に怒りを爆発させた信長は、嫡男・信忠を総大将に佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、丹羽長秀、筒井順慶など織田家主力軍4万を信貴山城へ差し向けます。対する松永軍は総勢約8千、5倍の兵力を信貴山城とその支城で迎え討ちました。
久秀が信長から大和一国の支配を許されていた頃は、その所領は約45万石、兵力として1万3千人ほどは動員可能でした。しかし、多聞城を失った当時の久秀には、とてもそんな大軍を動かすことはできません。それでも、久秀のもとには20万石を遥かに超える8千という軍勢が集まったのです。
そして10月1日、筒井順慶を中心とする織田軍は信貴山城の支城・片岡城に5千の軍で襲い掛かります。松永軍は、海老名勝正、森秀光らが約1千の兵で守備。『信長公記』によると勝正らは「本丸が落ちても天主に立て籠もり、鉄砲・弓矢を討ち尽くすと切って出て、約150人が討死した」と記されるほどの激戦となりました。
片岡城を落とすと織田軍は大和川を越え、10月3日には信貴山周辺を焼き払います。この時、「信貴山ヒサ門堂燃え云々」と『多聞日記』にあるように、朝護孫子寺の毘沙門堂が焼け落ちました。そして10月9日には、信貴山城下の武家屋敷に火が放たれ、残るは本丸とその近くの曲輪だけとなったのです。
10月10日、早朝から織田軍は本丸に総攻撃を開始。これに対し松永軍は壮絶極まる抵抗をみせ、弓・鉄砲を乱射、あるいは城門から打って出て、織田軍を後退させます。
しかしこの時、本丸中枢に近い三の丸から火の手が上がりました。この出火は織田側の調略により寝返った一部の家臣によるものともされます。
ここに至り、久秀は本丸の四層櫓で自害して果てました。享年68歳。子の久通も父と運命をともにしました。『豊臣兄弟!』で描かれたような「平蜘蛛茶釜」もろとも爆死したというのは後世の創作で、どの一次資料にもそのような記載がないのが事実です。
ただ、第一級の茶人でもあった久秀は、茶道具や茶の湯を政治的駆け引きの道具として用いる信長を、風流を解さぬ「俄か数寄者」と見ていたのかもしれません。
一度は降伏の印として「九十九髪茄子」を献上したものの、最後の時に至っては信長のような無粋な者には「平蜘蛛茶釜」は断じて渡さないという、久秀の文化人としての矜持を感じさせるのです。
信貴山・多聞両城が語る久秀と家臣の関係圧倒的に不利な状況で、しかも滅亡が差し迫る中で、久秀の家臣たちは最後まで奮戦しました。この事実は、いかに家臣たちが久秀を信頼し、そして深く結びついていたかを示しています。
そのようなことがなぜわかるのか、それは久秀が本拠とした多聞城と信貴山城の遺構から伺えるのです。最後にそのことを簡潔に説明してこの記事を終わりたいと思います。
久秀は戦国期の真っただ中を生きた人物です。この時期の城郭はその特徴として、山城あるいは平山城に領主の居住空間(後の天主)と家臣の屋敷を取り込むという縄張りが主流でした。
多聞城・信貴山城の縄張りを見てみると、久秀の屋敷はほかの家臣の居住区と比べると確かに規模は大きく、格式も整っているのですが、特別な優位性はなく横並びの関係にありました。
つまり久秀は、重臣や信頼のおける家臣たちと並列的に屋敷を構えていたのです。言い換えれば、久秀は家臣たちに強権を持って接したのではなく、連合的な関係を築いていたことになります。
ここが信長との決定的な違いでした。信長は清須城までは家臣たちと並列的に屋敷を構えますが、小牧城、岐阜城、安土城と本拠を移すうちに、その縄張りに家臣たちに対する強権的な側面が表れるようになっていきます。
安土城を例にとれば、信長の居住区である中心部は本丸・二の丸・三の丸などの曲輪群をひと続きの高石垣の城壁で囲い込み、山麓の家臣屋敷を圧倒する求心性を誇示しているのです。
このような強権的な信長の考えが、多くの離反を招いたと言っても過言ではないでしょう。弟の信行、家督相続当時の柴田勝家、義弟の浅井長政、荒木村重、そして本稿の主人公・松永久秀など信長を裏切った武将たちはたくさんいます。そして、最後は明智光秀により殺されてしまいました。
信長と比べると久秀は、歴史的にはさほど重要な人物ではないかもしれません。しかし、梟雄や悪人と称されながら、最後まで多くの家臣に慕われた久秀の人物的な評価を、いまこそ見直すべきではないでしょうか。
※「豊臣兄弟!」関連記事:
【豊臣兄弟!】市川團子が演じる信長最愛の小姓…18歳で討死した美少年・森乱(森蘭丸)の短すぎた人生 【豊臣兄弟!】次回「風雲!竹田城」を予習。小一郎(仲野太賀)が総大将デビューで覚醒?激闘の顛末を紹介 『豊臣兄弟!』ドラマでは描き切れなかった松永久秀(竹中直人)…平蜘蛛と爆死だけでは終わらない本当の実像※参考文献
千田嘉博著 『城郭考古学の冒険』幻冬舎新書
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan


