27歳で討死したはずの斎藤龍興は生きていた?戦国時代、信長に敗れた美濃斎藤家当主に残る2つの生存説『豊臣兄弟!』
美濃国を守るため織田信長と戦った美濃斎藤家3代目当主・斎藤龍興。
信長に敗れ美濃国から去った後には三好三人衆や石山本願寺、縁戚の朝倉義景を頼り、最終的に天正元年(1573)の刀根坂の戦いで討死しました。
27歳の若さで非業の死を遂げた龍興でしたが、生存説があるのはご存知でしょうか。
今回は龍興にまつわる2つの生存説をご紹介します。
石山本願寺を頼り、再起を図った
刀根坂の戦いを生き延びた龍興は、かつて結びつきがあった石山本願寺を頼ったといわれています。そこで長島一向一揆で共に戦った了願と再会し、2人は石山合戦を雑兵に混じりながら戦います。
天正8年(1580)に石山本願寺が信長と和睦をすると、美濃国羽島郡足近村(現在の岐阜県羽島市足近町)に移り住み再起を図りました。
しかし、それは叶わず天正10年(1582)の5月5日に龍興は自害してしまいます。
信長の勢いが凄まじく、誰を頼っても信長に一矢報いることができないと悟ったのかもしません。また、結核による病死ともいわれています。
共に移り住んでいた了願は龍興を弔うため、長島にあった自身の寺を移し、願教寺を建立しました。
実際に願教寺には、龍興だけではなく義龍や龍興実子・義仁の親子3代にわたる墓や斎藤家の系図が大切に保管されています。
名を変え、農民となった
他に、龍興が永禄12年(1569)1月に起きた本圀寺の変後に落ち延びたとされる伝説も残されています。
その伝説は、同年3月に家宝系図を持って越中国新川郡布市村(現在の富山県富山市布市)の興国寺に逃れたことから始まります。
龍興は現在の情勢を考えた末に斎藤家再興はできないことを悟り、九右ェ門と改名。その地に住みつくと、付近の荒れ地を開拓し始めます。
龍興は、人々に仏の力である、お経の力なりと励まし続け、開拓を行いました。そのような経緯から天正8年(1580)に開拓地を経力村(きょうりきむら)と命名しました。
慶長16年(1611)には家督を譲った後に出家し、興国寺の住職になります。また、龍興はその寺の第2の創始者である中興開山になったと伝えられています。
さらには、鶴に導かれた場所から源泉を発見したことも伝わっており、その源泉は霊鶴源泉(れいかくげんせん)と名付けられました。木造薬師如来像も祀られ、経力の湯として長年親しまれました。
その後は寛永9年(1632)に86歳で死去。墓は富山県富山市経力の本誓寺にあるといわれています。
また、龍興改め九右ェ門の子孫は、文政3年に越中国新川郡大泉村(現在の富山市大泉)に移りました。大正2年(1913年)には富山県新川郡堀川村小泉(現在の富山市堀川小泉)に移り住んだといわれています。
また、残念ながら霊鶴源泉は大正6年(1917)に廃業しています。
参考:木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず 』2020年、ミネルヴァ書房
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