『豊臣兄弟!』信長を裏切る荒木村重(トータス松本)…逃亡の果てに待っていた700人処刑の悲劇

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『豊臣兄弟!』信長を裏切る荒木村重(トータス松本)…逃亡の果てに待っていた700人処刑の悲劇

下克上や謀反が相次いだ戦国時代。巻き込まれた一族や関係者は見せしめに命を奪われることも珍しくなかった。大河ドラマ「豊臣兄弟!」でトータス松本が演じている、戦国武将・織田信長に仕えた大名「荒木村重(あらきむらしげ)」も主君を裏切った男の1人だ。

トータス松本が演じる荒木村重(大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式Xより)

村重の裏切りによって700名近い関係者が処刑されたという。今回は、悲劇的な結末を迎えた荒木村重の謀反事件についてご紹介する。

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荒木村重とは

1535年に摂津国(現在の大阪府北部)に生まれる。摂津池田氏に仕えたが、1571年に主君に反旗を翻す形で起こした「白井河原の戦い」をきっかけに織田信長の家臣となった。

信長と室町幕府15代将軍「足利義昭」の対立中も信長方として活躍した。摂津国内の有力な国人を滅ぼした結果、摂津一国を任されるに至る。

村重は伊丹氏から奪った伊丹城を「有岡城」と改称。摂津に有岡城を中心とした新たな支配体制の基盤を築き上げ、信長から摂津守護に任じられる。

「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」Wikipediaより

突然の裏切り

1578年。播磨国(現在の兵庫県)征伐に加わっていた村重は、突如として信長に反旗を翻し戦線を離脱してしまう。

村重を評価していた信長は謀反の事実に驚き、事態の真相を究明するために明智光秀など数名の使者を送っている。しかし、村重は反信長を主張する家臣からの説得もあり、反旗の意思を崩さなかった。

信長はその後も使者を遣わせ、村重に翻意を迫るが交渉は決裂。播磨国侵攻を任されていた羽柴秀吉の家臣で、村重と関係性の深かった黒田官兵衛は単身で説得に向かうが、村重は官兵衛を監禁し居城である有岡城に籠城した。

有岡城の戦い

再三の翻意要請にも応じない村重に、業を煮やした信長は村重討伐に挙兵。村重傘下の周辺大名に切り崩し工作を仕掛けながら有岡城を目指した。

織田方に寝返る勢力が続出した結果、有岡城は孤立する。12月に入ると本格的な攻城戦となったが、守りに長けた有岡城は健闘し織田軍は多くの兵を失ってしまう。

この事態を受けた信長は作戦を兵糧攻めに変更。持久戦に持ち込み、自らは安土城に帰城した。「堅城」といわれた有岡城はよく持ち堪えるが、1579年の9月に村重のとった行動によって事態は大きく急変することになる。

織田信長(Wikipediaより)

開城

1579年9月。有岡城で籠城中の村重は、わずかな側近と共に城を脱出。長男の村次が守る尼崎城へ移ってしまう。村重の逃亡は数日のうちに間者(スパイ)によって織田方に知れ渡り、織田軍は本格的な調略作戦を開始した。

10月。織田軍は有岡城を総攻撃。残された家臣たちは村重に変わって城守をしていた「池田知正」を中心に奮戦するも、織田方に寝返った兵の影響もあり11月に開城となった。

信長は講和を持ちかけ「居城する尼崎城と西方の花隈城の明け渡すならば、家族や家臣の命は助ける」という条件を村重に提示し、返答を待った。

信長との交渉の末に逃亡した荒木村重の家臣「池田知正」Wikipediaより

村重と知正の逃亡

尼崎城に籠る村重は信長の提案を拒否。尼崎城から脱出し花隈城へ籠城する。さらに、家臣代表として信長の講和条件を伝えた知正は、交渉が決裂したことによる保身のためから逃走してしまう。

講和交渉が決裂したことを受け、信長は村重や知正への見せしめのために人質の処刑を決定した。

700名近くを処刑

村重の行為に対し、「武道人にあらず」と非難した信長の怒りは凄まじく、荒木一族や関係者はほぼ全員が処刑されている。

12月には尼崎近くで122人の女房衆(家臣の妻子など)を磔にして処刑。また京都に護送された村重の一族と、重臣の家族36人が六条河原で斬首された。身分の低い人質は農家に押し込められ火をつけられたという。

結果的に700名近い関係者が村重の講和拒否によって殺されている。処刑された人物の中には、村重の妻や知正の息子も含まれていた。

信長の生涯を綴った「信長公記」には、この時の状況が以下のように記載されている。

“風のまはるに随って、魚のこぞる様に上を下へとなみより、焦熱、大焦熱のほのほにむせび、おどり上り飛び上り、悲しみの声煙につれて空に響き、獄卒の呵責の攻めも是なるべし。肝魂を失ひ、二日共更に見る人なし。哀れなる次第中々申し足らず”(Wikipediaより)

摂津国からの逃亡と晩年

1580年。花隈城に移った村重は、追撃してきた織田方の重臣・池田恒興軍と2度にわたって交戦している。織田軍は2度目の戦いで花隈城を開城させることに成功するが、村重はしぶとく逃亡し毛利氏を頼って西国に落ち延びた。

1582年に信長が横死すると、村重は堺に戻り居を構えたという。晩年は秀吉の元で茶人として活動したという記録も残っている。1586年に堺で死去。享年52。

有岡城の戦いの記念碑(Wikipediaより)

謀反の謎

村重が信長を裏切った利用は現在でも判明していない。謀反の理由には信長との不仲説や、足利義昭の陰謀説など諸説あるが、どれも確証は得られていない。

比較的信憑性の高いものとして、摂津国の支配体制に関する説を上げることができる。摂津国は土着の国衆の勢力が強く、摂津を支配下に収めようとしていた信長に対する反感の気運が高い土地だった。

摂津国を任されていた村重は、信長と自国勢力との間で板挟みとなり、結果的に信長を裏切る選択をしたというものだ。

逃亡の理由

謀反の理由は定かでないが、戦国の世における裏切りや下克上は珍しいことではない。村重に関して特徴的であるのは、むしろ「逃亡劇」だろう。

武士である村重が、自身が逃亡することによる人質の運命を予期できないはずはない。人質を犠牲にしてまで逃亡したのは、村重自身が臆病者であったからなのか。

そもそも村重には、謀反に対する相応の覚悟があったのかどうか疑問が残る。事実、村重は織田方の使者の説得を受け一度は翻意したが、家臣に説得され思い止まっている。村重の覚悟の危うさを感じさせるエピソードだ。

中途半端な覚悟で一度は謀反を実行したが、怖くなり翻意を試みるも失敗。引っ込みが付かなくなり戦を続けるも、形勢不利とみて逃亡を決意。といった推測は穿った見解だろうか?

もちろん推測に過ぎないが、いずれにしても村重の逃亡によって700名近い関係者が処刑されたことは事実だ。

最晩年には出家し仏門に入ったという村重。自身の生涯をどのように見つめていたのだろうか。

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