“財閥”はなぜ戦前の日本経済を支配できたのか?一族に富を集めた「持ち株会社」という仕組み
持ち株会社の力
戦後、GHQによって財閥解体が進められるまで、日本では財閥が驚くほどの力を持っていましたが、その背景には持ち株会社という仕組みがありました。
持ち株会社は自分で事業を行う会社ではなく、グループ企業の株を持つだけの会社です。
財閥はこの会社を頂点に置き、議決権の過半を握ることでグループ全体を支配しました。
いわば財閥の最高司令部であり、事業戦略や投資方針を決める中心的存在だったわけです。
そもそもこの仕組みは、もともと節税のために生まれたものです。
日本には明治33年まで法人税が存在せず、会社は個人事業者と同じように所得税の対象でした。しかも会社が所得税を払う場合、役員や社員には所得税が課されないという制度だったのです。
しかし明治33年の税法改正で法人税が導入され、会社と個人の両方に税がかかるようになります。ここで財閥は新しい抜け道を見つけ出したのです。
配当金の抜け道新しい抜け道とは、配当金には税金がかからないというものでした。
導入された法人税も、税率は25%と低かったため、役員に高い報酬を払って所得税を取られるより、会社に利益を残して配当として出す方が圧倒的に有利です。
ここに目をつけた財閥は事業を分社化し、利益を持ち株会社に集中させました。
すると持ち株会社は莫大な配当金を受け取り、財閥一族はほぼ無税で巨額の富を蓄積することになりました。
1920年、丸の内の三菱財閥本社 (Wikipediaより)
さらに、持ち株会社の株は非公開で一般の投資家は買うことができず、経営権は一族の手から外に出ることがありません。
その一方でグループ企業の株は公開されていたため、財閥は市場から資金を調達できます。
つまり、資金は外から集めるけれど、支配権は一族が独占するという構造が成立していたのです。この仕組みが財閥を日本経済の中心へと押し上げました。
政治との結びつき財閥の力を強めたもう一つの要因が、政治との癒着でした。
財閥は明治政府の保護を受けて成長しましたが、帝国議会が開設されて民主制度が導入された後も、その関係は続きました。
選挙制度が整うにつれ、政治家は多額の選挙資金を必要とするようになり、財閥からの資金提供に依存するようになります。
昭和初期には、政友会には三井、民政党には三菱というように、政党と財閥の結びつきが明確でした。安田、古河、住友などもそれぞれ政党に資金を提供し、政治と財閥の間には閨閥も形成されていたのです。
たとえば大正末期の首相・加藤高明は三菱岩崎家の娘婿であり、政治と財閥が密接に絡み合っていたことがわかります。
こうした政治的後ろ盾と税制上の優遇が重なって財閥は莫大な富を蓄え、日本経済を支配する巨大資本へと成長していったのです。
持ち株会社という仕組みは、単なる企業形態ではなく、富と権力を一族に集中させるための強力な装置だったのです。
終戦直後、GHQはここに目をつけて持ち株会社を禁止し、財閥解体を進めました。
参考資料:大村大次郎『脱税の日本史』宝島社、2024年
画像:PhotoAC,Wikipedia
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