武将・雑賀孫市(鈴木重朝)の愛刀「八丁念仏団子刺し」その名に隠された恐ろしすぎる斬撃伝説とは
名刀のネーミングは実にユニークなものが多く、たいていは斬れ味や斬ったモノに由来します。
今回は雑賀孫市(さいか まごいち)こと鈴木重朝(すずき しげとも)の愛刀である八丁念仏団子刺し(はっちょうねんぶつだんごさし)を紹介。
何ともユーモラスな名前ですが、果たしてどんなエピソードがあるのでしょうか。
とりあえず試し斬り
刀を持ったら斬ってみたくなるのが人情というもの?(イメージ)
八丁念仏団子刺しが作刀されたのは鎌倉時代、刀匠は備中片山一文字派(びっちゅうかたやまいちもんじは)の行家(ゆきいえ)と考えられています。
※現在これを保管している徳川ミュージアムでは、古備前派(こびぜんは)の助村(すけむら)作と認識しているようです。
重朝がどのような経緯でこの八丁念仏団子刺しを手に入れたのかは、よくわかっていません。
ともあれ重朝は、新しく手に入れた太刀の斬れ味を試そうと、いそいそと辻斬りに出かけました。
さぁどこかに手ごろな相手はいないかな?夜道を探していると、いい感じのお坊さんが歩いているではありませんか。
お坊さんは熱心に念仏を唱え、合掌しながらしずしずと歩いています。
これは斬ってくださいと言っているようなもの。さっそく重朝は背後から忍び寄り、お坊さんを袈裟がけ(斜め)に斬りつけました。
が、斬られたお坊さんは倒れません。まるで何もなかったように、念仏を唱えながら、そのまま歩いていきます。
確かに斬った手応えはあったのですが、一体どういうことでしょうか。
斬られたことさえ気づかずに……。
よもや化け物ではあるまいか?そんなことを思いながら、そっとお坊さんの後をつけていきます。
一丁(約109m)歩き、二町歩き……お坊さんは相変わらず念仏を唱えながら歩き続けました。
もしかしたら、斬ったつもりで実は斬れていなかったのか?そんな疑念が確信に変わりつつあった、その時です。
八丁ほども進んだところで、ふと念仏が止まりました。お坊さんの歩みも止まっています。
さぁ化け物が本性でも現すのか?と思ったら、何と先ほど重朝が斬った太刀筋通りに、お坊さんの身体が真っ二つに崩れました。
つまりお坊さんは、自分が斬られたことさえ気づかずに、念仏を唱えながら歩き続けていたのです。
何という斬れ味の鋭さよ、と重朝が手もとを見ると、太刀の先端に小石が貫かれていました。
恐らくお坊さんを斬った勢いで地面も斬りつけ、そこにあった小石も貫いたのでしょう。
斬られたことに気づかず八丁歩くまで念仏を唱え、石を団子のように貫いたエピソードから、この太刀は八丁念仏団子刺しと呼ばれるようになったのでした。
関東大震災で焼け刃に
その後、八丁念仏団子刺しは鈴木家に代々受け継がれていきます。
しかし明治時代に入り、鈴木家が困窮すると、主君であった水戸徳川家に買い上げてもらいました。
大正10年(1921年)になると水戸徳川家も困窮したのか、秘蔵の名刀たちを放出しますが、八丁念仏団子刺しは手放さなかったようです。
それほどの名刀でしたが、大正12年(1923年)の関東大震災で水戸徳川家も罹災し、八丁念仏団子刺しは焼け刃(刀身が焼けてダメになること)となってしまいました。
ただし紛失は免れたため、水戸徳川家にて保管され続けます。焼けたとは言え、旧臣の忠義に報いるためでしょうか。
終わりに今回は、名刀「八丁念仏団子刺し」について紹介してきました。真偽のほどはともかく、よほどの業物だったのでしょうね。また重朝の腕前も凄まじいものです。
それにしても「刀を手に入れたから、とりあえず人でも斬ってみよう」と思う感覚に、戦国乱世の気風が感じられます。
現代は徳川ミュージアム(茨城県水戸市)に保存されているので、機会があればぜひ一度は拝みたいものですね。
※参考文献:
鈴木眞哉『紀州雑賀衆 鈴木一族』新人物往来社、1984年7月 刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』ナツメ社、2016年3月 福永酔剣『皇室・将軍家・大名家刀剣目録』雄山閣出版、2020年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan