源平合戦期にもいた“傾奇者”毛利太郎景行とは?和田合戦で壮絶な最期を遂げた知られざる生涯
ひとたび戦場に出れば獅子の如く暴れ狂い、一方普段は洒落者として自由気ままに暮らす……聞いていると、まるで戦国乱世の傾奇者(かぶきもの)を連想させます。
そんな傑物が源平合戦期〜鎌倉時代にもいました。彼の名は毛利太郎景行(もうり たろうかげゆき)。果たしてどんな生涯をたどったのでしょうか。
自由気ままな快男児
……景行性剛毅果断 軍旅に出ては勇往邁進宛(さなが)ら獅子の狂うが如く郷里に入りては洒々落々。「われしばし小屋入りの身なり」などといゝて、時に思いを白山の松に走らせ、或は細入川に涼を結び悠々自適、遂に常住の屋を定む……
※山口利雄編『煤ケ谷史料』
……永暦の昔、毛利太郎景行は、此の地に小邸を構えて、自らすすがき小屋と称し極めて洒落の生活をなし、武技鍛練の傍ら民政にも亦能く(またよく)意を注いだとのことである。次いで其の子小太郎、小次郎亦(また)父の意を継いで、教化殖産等地方開拓の為に貢献する所尠(少)なからずであつた……
※『愛甲郡制誌』
毛利太郎景行は生年不詳、永暦年間(1160〜1161年)に相模国毛利荘(もりのしょう。神奈川県厚木市・愛川町・清川村にまたがる地域)を領しました。
景行は武士の心得として弓馬の鍛練に励む一方、毛利荘の統治にも心を砕きます。開拓を進めて土地を富ませ、領民たちの心を掴んでいったのです。
このように文武両道の名君でありながら、景行は自由気ままな洒落者でもありました。
あえて小さな館を建てて「すすがき小屋」と名づけ、それが煤ケ谷(すすがや。清川村)の地名となっています。
すすがきの意味は諸説あり、虫除けのために燻して煤けた粗末な垣根とも、簀垣(すがき。簀子のように粗い造り)や菅掻(すががき。和琴の奏法)とも考えられるでしょう。
しかし当人にしてみれば、そんな細かいことはどうでもよかったのかも知れません。人生はノリが一番です。
ふと思い立てば馬を駆って白山(はくさん。清川村と厚木市の境)の松風を浴び、暑ければ細入川(ほそいりがわ。詳細不明、清川村か)に飛び込むような気ままさが身上でした。
ちなみに現代も残る御門(みかど)・御所垣内(ごしょがいち)などの地名は景行の館に由来するそうです。
すすがき小屋と言いながら実は広い豪邸に住んでいたのか、あるいは本当に館は小さくても「領内のこの辺りまで我が館も同然」と自他ともに認められていたのでしょうか。ここまで紹介してきた景行であれば、後者のような気がしてなりませんね。
また景行は信仰心も厚く、治承年間(1177〜1180年)に京都の石清水八幡宮から八幡大菩薩を勧請、八幡神社を創建しました。その故事にちなんで、現代も宮野(みやの)という地名が伝わっています。
※現在の八幡神社は、子供の毛利小太郎と毛利小次郎が、現在地(煤ケ谷八幡)へ遷座しました。
鎌倉殿三代に奉公、和田合戦で討死
治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆で挙兵すると、平家の被官であった景行は、鎌倉一族の惣領であった大庭三郎景親(おおば さぶろうかげちか)に与します。
一度は石橋山の合戦で頼朝らを撃破するものの、取り逃したためわずか2ヶ月で逆転されてしまいました。
大庭景親は降伏して処刑の憂き目に遭い、鎌倉一族はじめ坂東平氏らは続々と頼朝に臣従します。
景行も頼朝に臣従して本領を安堵され、永く毛利荘を統治しました。
恐らくは領民たちもそれを喜んだことでしょう。あるいは人望の厚い景行を処断・追放すれば、領民たちの反発が懸念されたから、手を下せなかったのかもしれません。
その後、景行は頼朝・頼家・実朝と鎌倉殿三代に仕えました。
しかし毛利一族に大きな転機が訪れます。時は建暦3年(1213年)5月2日、侍所別当の和田義盛が挙兵し、景行はこれに加勢しました。
鎌倉殿に弓を引くことになりますが、これも執権の北条義時を討たんがため。後世に伝わる和田合戦の勃発です。
恐らくは景行も北条の専横に憤り、義盛の義に呼応したのでしょう。
しかし時に利あらず、義盛はじめ和田一族は壊滅。景行も小太郎・小次郎ともども討死して果てたのでした。
エピローグ
『吾妻鏡』によれば、和田合戦における毛利主従の討死は以外の通りです。
毛利太郎景行 毛利小太郎 毛利小次郎 森辺五郎(もりべ ごろう) その甥(同姓とは限らない) その彦(五郎自身の孫?甥孫?) 渋河左衛門(しぶかわ さゑもん) 渋河小次郎 渋河左衛門太郎 渋河次郎一 毛利人々
毛利太郎 同小太郎 同小次郎 森邊五郎 甥一人 彦一人 澁河左衛門 同小次郎 同左衛門太郎 同次郎
以上十人※『吾妻鏡』建暦3年(1213年)5月6日条
果たしてこれが全員=全滅だったのか、あるいは毛利一族の生き残りがいるのか、詳しいことはわかっていません。
かくして毛利一族は滅亡し、その所領であった毛利荘は政所別当の大江広元が領するところとなりました。
その後に広元の四男である大江季光(すえみつ。四郎将監)が受け継ぎ、やがて毛利の苗字を名乗ります。
そして西国へ下り、戦国時代に中国地方の覇者となる毛利氏の祖となったのでした。
終わりに
……永暦の頃(紀元一八ニ〇年)毛利太郎景行(平家被官)治承の頃より景行当煤ケ谷村に住す。其の子なる小太郎も住す。当地に八幡神社を勧請。
建保元年(紀元一八七三年)景行父子和田義盛に党(くみ)して敗死す。建久年中、因幡前司大江広元大膳大夫所領。
鎌倉時代 広元の子四郎将監季光蔵人大夫伝領、北条氏治下……
※緑小学校蔵『郷土誌』写し
※紀元は皇紀=西暦+660年で換算。
今回は毛利荘を治めた毛利太郎景行の知られざる生涯をたどってきました。
物語の主人公になってもおかしくない豪傑・快男児ぶりでしたが、なぜこれほどの逸材が埋もれてしまったのでしょうか。
やはり「敗者は歴史を語れない」と言われる通り、和田合戦によって敗亡したからと考えられます。
しかし地元にはその功績を顕彰する史料が遺されており、こうして知られざる英雄の姿を発掘できました。
もしかしたら、他にも景行のような英雄が、まだ全国各地に眠っているのかもしれませんね。
※参考文献:
『煤ケ谷史料』清川村図書室、1963年5月 『昭和四十九年度 祠めぐり』清川村教育委員会、1975年3月 『昭和五十七年度 清川村地名抄』清川村教育委員会、1983年3月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan