『豊臣兄弟!』本能寺の変は“老い”が引き金だった?明智光秀を謀反へ追い込んだ「残り時間」という恐怖

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『豊臣兄弟!』本能寺の変は“老い”が引き金だった?明智光秀を謀反へ追い込んだ「残り時間」という恐怖

本能寺の変はなぜ起きたのか。その理由については、怨恨説野望説黒幕説など数多くの説が唱えられてきました。

しかし、見落とされがちな視点があります。それは「光秀の年齢」です。

明智光秀(要潤)は、織田信長(小栗旬)や豊臣秀吉(池松壮亮)より年長だった可能性が高く、本能寺の変の時にはすでに人生の終盤を迎えていたとも考えられています。

戦国武将にとって「老い」とは何を意味したのでしょうか。光秀の年齢から、本能寺の変の要因を探ってみます。

文化人でもあった明智光秀。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

見落とされがちな「年齢」という視点

NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、そろそろ前半のクライマックスともいうべき「本能寺の変」に近づいているようです。

本能寺の変を起こしたのは、明智光秀です。しかし、光秀がなぜこの大事件を起こしたのか、その理由は今もはっきりしていません。

光秀が織田信長を討った理由としては、古来よりさまざまな説が唱えられてきました。例を挙げると怨恨説、野望説、黒幕説などです。

配下に対して猜疑心を増していく織田信長。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

『豊臣兄弟!』では、安土城を完成させ天下統一を目指す信長は、やがて味方の大名だけでなく、家臣たちにも猜疑の目を向けるようになります。

このような過程で松永久秀(竹中直人)や荒木村重(トータス松本)などの大名が反旗を翻し、長年にわたり織田家のために懸命に働いてきた佐久間信盛(菅原大吉)、林秀貞(諏訪太朗)、また秀長(仲野太賀)の妻・慶(吉岡里帆)の父・安藤守就(田中哲司)などの重臣が次々に追放されていきます。

そして、1582年(天正10年)6月2日、実質上の織田家重臣トップである光秀が、京都本能寺に滞在していた信長を襲い、滅ぼすのです。

先述したとおり、光秀謀反の原因は定まっていません。しかし、この謎を考えるうえで、一要素になりうる理由がありました。それが、「光秀の年齢」であったのです。

光秀は本能寺の変の時、何歳だったのか

『豊臣兄弟!』では、光秀は、壮年期の武将として描かれているようです。

しかし、光秀の生年は定かではなく、本能寺の変の時点で何歳だったのかは諸説あります。しかし、信長や秀吉よりも年長であった可能性が高いのはほぼ間違いないでしょう。実はこの年齢差は、本能寺の変を考えるうえで重要な意味を持つのです。

戦国時代は全てではないにせよ、出自の低い者が成り上がっていく下剋上の世の中です。ですから戦国時代の人物には、生まれ年がはっきりしない人が多く、秀吉や秀長もその一人です。

明智光秀像(岸和田市本徳寺所蔵)

光秀の出自は、よく言われているのが美濃守護職・土岐氏の分家で、斎藤道三の重臣明智氏の一族ということです。しかし、彼の前半生に関する確実な史料が乏しく、さまざまな異説が唱えられています。

そのような中で、光秀の誕生年には主に二つの説があるのです。

一つは、徳川家康の事績を中心に記された『当代記』によるもので、1516年(永正13年)生まれ、本能寺の変の時の年齢は67歳となります。もう一つは、『明智系図』で、1528年(享禄元年)生まれとされ、本能寺の変の時は55歳です。

このほかに、森家の家臣による『武家聞伝記(ぶけぶんでんき)』では、1513年(永正10年)の生まれ69歳ということになるのです。

このように光秀の誕生年は、はっきりとした史料が残っておらず、確かなことは分からないというのが現実です。とはいえ前述したとおり、信長や秀吉より年上であったことは、ほぼ間違いないでしょう。

光秀よりも10歳以上若かった豊臣秀吉。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

ちなみに信長は、1534年(天文3年)生まれ、秀吉は確かではありませんが、1537年(天文6年)前後の生まれとされます。つまり、光秀は信長より5歳以上年上で、秀吉とでは10歳から20歳は年長である可能性が高いのです。

人生の終盤を迎えた光秀が抱いた不安とは

光秀の誕生年が、1516年や1528年とすれば、本能寺の変の時の年齢は、すでに50代半ばから60代後半ということになります。

戦国時代の平均寿命は、30歳から40歳。もちろん、80歳以上まで長生きする人もいましたが、常に合戦の場に身を置いている武将たちには、そんな保証はどこにもなかったのです。とすると光秀は、すでに人生の終盤に差しかかっていた年齢だったといえるでしょう。

「本能寺焼討之図」(明治時代、楊斎延一画)

そして、その光秀の目の前には、天下統一に向かい着々と進む信長がおり、その後継者には信忠がいました。さらに周囲を見回せば、急速に出世していく秀吉がいたのです。

それにもかかわらず、1582年(天正10年)3月の武田勝頼滅亡後には、信長と光秀の間には何かしらの不協和音が漂っていました。

その現実を前にしたとき、光秀は何を思ったのでしょうか。もちろん、本能寺の変の理由を、光秀の年齢だけで説明することはできません。しかし光秀が老齢に差し掛かったことで、織田家中で生きていくことに非情な不安を抱えていたらどうでしょう。

戦国武将、特に大名として一族や家臣を抱えていた者にとっては、最終的になすべきことは「家を残すこと」でした。

明智光秀は迫りくる老いに不安を感じていたのだろうか。(NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK)

信長や秀吉より年長だった光秀が、自らの残り時間と一族や家臣たちの未来を強く意識していたとしたら、それが本能寺の変に結びついたと考えても不思議はないでしょう。

信長の天下統一という大事業の蔭で、老境に達した光秀が抱いた焦りや不安。この視点から見直したとき、本能寺の変は従来とは違った側面をみせてくれるのです。

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※参考文献
磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を取った処世術』文芸春秋

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