石田三成が毒殺?改易から甲斐24万石へ復活した戦国武将・加藤光泰がたどった波乱万丈すぎる生涯【豊臣兄弟!】
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で池松壮亮が演じている豊臣秀吉の天下獲りを支えた武将たちの中には、派手な知名度こそないものの、驚くほど波乱に満ちた人生を送った人物がいます。
その一人が、加藤光泰(かとう みつやす)です。
もとは美濃の斎藤家に仕えながら、主家滅亡によって牢人となり、やがて秀吉のもとで武功を重ねて大名へ。しかしその後、秀吉の怒りを買って改易されるという大失敗を犯します。
それでも光泰は終わりませんでした。赦免後に復活を果たし、ついには甲斐24万石の国主へ。そして朝鮮出兵では「砂を食ってでも耐え忍ぶ」と豪語するほどの血気を見せた末、石田三成らに毒殺されたという噂まで残されることになります。
出世、失脚、復活、そして謎めいた最期——。
今回は、豊臣家臣団の中でもひときわ荒々しい生涯を送った武将・加藤光泰の足跡をたどってみましょう。
信長に武勇を見込まれ、秀吉の家臣に
加藤光泰は天文6年(1537年)、加藤景泰(かげやす)の子として美濃国で誕生しました。元服して通称を作内(さくない)または権兵衛(ごんべゑ)と名乗ります。
はじめは斎藤竜興(濱田龍臣)に仕えていたものの、永禄10年(1567年)に斎藤家が滅亡すると隣国の近江へ逃れ、牢人となっていました。
斎藤家を滅ぼした織田信長(小栗旬)は光泰の奮戦ぶりを気にとめていたそうで、後に秀吉の仲介で織田家に臣従。秀吉の家臣に加えられます。
秀吉に仕えた光泰は元亀2年(1571年)に浅井長政(中島歩)を撃退したり、天正6年(1578年)の三木城攻めに従軍したり、武功を重ねて播磨国に5千石の知行を賜わりました。
天正10年(1582年)に秀吉が明智光秀(要潤)を征伐した山崎の合戦では、敵本隊に殴り込みをかけて勝利のきっかけをもたらします。
この武功によって丹波国周山城(京都市右京区)1万5千石を賜わり、晴れて大名となりました。その後も2万石に加増され、近江国そして尾張国犬山城(愛知県犬山市)へ移ったそうです。
天正11年(1583年)に秀吉が柴田勝家(山口馬木也)を討伐した賤ヶ岳の合戦において、光泰は軍奉行を務め、翌天正12年(1584年)に秀吉が徳川家康(松下洸平)と争った小牧・長久手の合戦では犬山城を守備します。
また佐々成政(白洲迅)の討伐にも従軍し、天正13年(1585年)には美濃大垣城(岐阜県大垣市)4万石を与えられました。
改易から甲斐24万石の国主に
この時に秀吉から2万石の蔵入地を管理するよう任されていましたが、光泰はこの収益を横領したため、秀吉の逆鱗にふれてしまいます。
改易(所領を全没収)された光泰の身柄は豊臣秀長(仲野太賀)に預けられ、しばらく大和郡山城(奈良県大和郡山市)で蟄居していました。
やがて天正15年(1587年)に赦免された光泰は、近江国佐和山城(滋賀県彦根市)2万石を与えられ、また従五位下・遠江守に叙せられます。
天正18年(1590年)の小田原征伐では駿府城の在番として最前線には出ませんでしたが、戦後に甲斐国24万石を与えられました。
後方で武功も立てていないのになぜ?と思いますが、これは羽柴秀勝(秀吉の養子で姉ともの次男)が美濃国へ国替えされたことが原因です。
何でも彼女が「秀勝が甲斐なんて遠い国に行かされるのは可哀想だから、もっと近くの国に替えてほしい」と秀吉にゴネた結果だそうで、光泰にすれば思わぬ幸運でした。
甲斐国は関東八州を支配する徳川家康との国境に当たるため、光泰は一族総出で厳重に警戒し、また領内の検地や甲府城(山梨県甲府市)の築城に着手しています。
天下一統を果たした秀吉の野望は朝鮮半島や中国大陸にまで及び、やがて火蓋が切られた文禄の役(第一次朝鮮征伐)では、光泰も従軍に志願しました。
老いてなお血気盛んな光泰は朝鮮でも武功を立てたものの、現地で病に倒れ、文禄2年(1593年)8月29日に世を去ってしまいます。享年57歳。
「砂を食っても耐え忍んでみせる!」
朝鮮における光泰の武辺ぶりは『名将言行録』に詳しく記され、人々の胸を熱くさせてきました。
ちなみに『名将言行録』は後世の著作であり、史料的な信憑性については今一つといったところです。しかし往時の人々が「光泰ならばやりかねない」と信じられ、伝えられてきた内容として、ここに紹介したいと思います。
李氏朝鮮へ渡海した光泰ら諸将が京城(ソウル)まで進撃した際、軍議の場でこのような意見が出ました。
「明国(みん)の援軍がやって来るので、一度釜山(プサン)まで撤退して、態勢を整えてから出直そう」
これを聞いた光泰は激昂して「明国の援軍が来るなど、とっくにわかっていたことではないか。今ここ(京城)を放棄すれば、敵に奪われてしまう」と反論します。
すると「そうは言っても、兵糧が続かんのだ」とのこと。確かに腹が減っては戦もできません。しかし、ここで引き下がる光泰ではありませんでした。
「もし兵糧がなければ、砂を食ってでも耐え忍んでみせる!」
光泰に呆れた石田三成(松本怜生)は「人間がどうやって砂を食えるというのだ」とたしなめますが、光泰は聞き入れません。
「もういい!引き揚げたくば勝手になされよ。それがし一人だけはここに踏みとどまり、万が一生きて帰れた際には、そなたらの腰抜けぶりをすべて殿下(秀吉)に報告してやる!」
そうまで言われてしまっては、他の者たちも京城に残らざるを得ませんでした。もちろん腰抜け呼ばわりされた石田三成・増田長盛(ました ながもり)・大谷吉隆(大谷吉継)らはこれを恨み、対立を深めたそうです。
大活躍するも三成に毒殺された?
果たして文禄2年(1593年)1月に明国の援軍が襲来しました。敵は大軍ですから、籠城策をとってこれを防ごうとする三成らに対して、光泰は出撃するよう主張します。
「立て籠もったところで補給や援軍が十分に見込めない以上、ただ摩耗していくばかりだ。ここは撃って出て、数に驕る敵を打ち破る他に活路はない」
光泰の意見に小早川隆景(山本浩司)や立花宗茂(たちばな むねしげ)も同意し、果敢に出撃していきました。
果たして光泰らは明国の大軍を撃退する戦果を上げ、首級3万8千余りを獲ったそうです。
かくして朝鮮半島でも勇名を馳せた光泰は、やがて和睦によって帰国の時を迎えました
西生浦(ウルサン)で事後処理をしていた光泰に、石田三成・増田長盛・大谷吉継ら3人が和解を申し出ます。
光泰はこれを快諾し、宮部長房(みやべ ながふさ。宮部継潤の嫡男)の陣中で和解の席を共にしました。これでわだかまりなく日本へ帰れる……そう思ったのも束の間、光泰はその日の内に体調を崩し、そのまま陣没してしまったのです。
そのため、人々は三成に鴆殺(ちんさつ。鴆毒による暗殺)されたのであろうと噂したのでした。
……遠江(光泰)勇敢不撓(ゆうかんふとう)の気を称すべし。しかれどもその言(げん)傲岸にして稜角(りょうかく)を露(あら)わす。故に衆怒に触れ、ついにその死を得ず……
【筆者意訳】光泰は勇敢で不屈の精神をもって称えられるべき豪傑である。しかしその言動は傲慢でトゲがあったため、人々のヘイトを集め、まっとうな死に場所を得られなかった。
これは『名将言行録』巻之三十二「加藤光泰」末尾に添えられた漢詩を、筆者が読み下し、現代語訳したものです。
終わりに今回は秀吉に仕えて活躍した加藤光泰について、その生涯をたどってきました。
斎藤家滅亡で牢人→秀吉家臣として出世→調子に乗って改易→赦されて甲斐国主に→朝鮮征伐で武功→石田三成に暗殺?という、実に波乱万丈の人生を送ったようです。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、加藤光泰が登場するのでしょうか。もし登場するなら、キャスティングについても気になりますね。
豊臣家臣団には、他にも個性的な武将たちが揃っているので、また紹介できたら嬉しいです。
※参考文献:
『国史大辞典 3 か』吉川弘文館、1983年1月 岡谷繁実『名将言行録』岩波文庫、1943年12月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan