【豊臣兄弟!】美少年・森乱(蘭丸)は実際に強かった!?「安土相撲大会」に隠された“権力誇示”の真実
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」第25話『変事の予兆』。
織田信長(小栗旬)の新たな城・安土城が完成した祝宴で、信長は家臣たちに相撲をとるように指示し、若き近習・森乱(市川團子)と、その相手になぜか長老格の重臣を指名しました。
信長の「相撲好き」はさまざまな史料にも描かれているほど有名で、元亀元年(1570)〜天正9年(1581)年までの間、たびたび安土(今の滋賀県近江八幡市)の常楽寺で相撲大会を開催しています。
元亀元年といえば、あの『姉川の戦い』で浅井・朝倉連合軍と死闘を繰り広げた年。信長がどれだけ相撲が好きだったか…がうかがえるでしょう。
ドラマ内では、その直前にも妹の夫・浅井長政(中島歩)と相撲をとり絆を深めた場面がありましたね。
今回は、『安土相撲大会』を中心に、信長の相撲好きの謎と、美しい容姿ながらも強い森乱の謎を史実から探ってみました。
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天正8年、「天下人・信長」の権威を示す巨大建築、安土城が完成。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
家柄より「能力主義」だった信長歴代の武将の中でも一、二を争うほどの相撲好き……と伝わる織田信長。
信長の行動を記した『信長公記』によると、少なくとも10回以上は、相撲大会を催したという記述が登場するそうです。
なぜ、そこまで信長が相撲を愛したのか?を「本人が誰かに語った」史料はありませんが、当時の状況などを鑑みて推測した説はいろいろあります。
▪️信長は、家柄より能力主義だったため、武芸・馬術・鷹狩り・鉄砲など「人間そのものの能力」を見ることを好んだため、人と人が“がっぷり四つ”になる相撲を好んだ。
▪️「相撲」は娯楽であり武芸であり人間の身体能力を知る競技。全国から集まった参加者の中から「強いもの」が出てくるのを見て楽しみたかった。
▪️現代とは異なり、相撲大会は武士・浪人・農民・社寺関係者などさまざまな人が参加するため、その中から「秀でたもの」をスカウトし、護衛・足軽・小姓などふさわしいポジションに取り立てるため。
つまり、娯楽として「相撲大会」の観覧を楽しみつつも、「強いもの」を見つけて人材発掘をする目的もあったと考えられます。
相撲大会の勝者たちに与える褒美は、金銀飾りの太刀・脇差・衣服・信長の領地の一部・私邸など、規格外の豪華さでした。
娯楽と人材発掘を兼ねた相撲大会。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイトより)
相撲大会の一番の目的は『権力の誇示』そして、信長一番の狙いは『権力の誇示』だったと推測されています。
度肝を抜くようなド派手なイベントを行い「さすがは織田信長!やることのスケールが違う」と民衆を驚かせるが好きだった信長。それと共に、諸国の武将らに自分の力の強さを見せつける狙いもありました。
たとえば、天正9年2月28日(1581)には、着飾った家臣や一族たちが名馬に乗って行進する『京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)』という軍事パレードを行なっています。
この御馬揃えには、大混乱になるほど洛中洛外から市民が駆け付け、各地の武将にまで信長の力を知らしめる結果となりました。
さらに、同年7月には、安土に滞在中だった宣教師の帰国を見送るために安土城を提灯の灯りでライトアップし「信長の威光」を世の中に知らしめました。
大規模な相撲大会もその一つ。信長の催した相撲大会は、全国から数百人〜数千人規模の参加者が集まったそうです。
それだけの人々が「天下人の前で相撲を取る」こと自体が、効果的に信長の権威を示す政治イベントとなりました。(これは後の豊臣秀吉や徳川家康にも受け継がれていきます。)
安土城下で催された有名な相撲大会は……
▪️天正6年(1578)8月15日に開催した相撲大会。1500人もの参加者が集い、蒲生氏郷や堀秀政など腕力に覚えのある武将も土俵に上がったそうです。
辰の刻(午前7時~9時頃)に始まり、酉の刻(17時~19時頃)まで行われるという大規模なものでした。
▪️1579(天正7)年に行われた相撲大会では、伴正林(ともしょうりん)という人物が非常によい成績を収めました。
翌年の相撲大会も勝利し米50石をあてがわれました。
7人抜きの大勝利で信長の目に止まり、そのまま召し抱えられた伴正林は、当時18歳ほどだったそうです。
けれども、信長の家臣となったために、天正10年(1582)『本能寺の変』で20歳という若さで討ち死にするという運命を迎えることになりました。
指名された長老格の重臣3人とは
「豊臣兄弟!」第25話『変事の予兆』では、安土城完成の祝宴というおめでたい席で、信長が相撲をとるように指示。
若き近習・森乱の相手に、なぜか長老格の重臣を指名するようですが……。
指名されたのは、林秀貞(諏訪太朗)、佐久間信盛(菅原大吉)、安藤守就(田中哲司)という、織田家を長年支え続けてきた重臣たち。
▪️林秀貞(はやしひでさだ)
生没年は不詳で、信長に仕えた重臣の中でもあまり知られていない存在ですが、信長の父・信秀の代から仕え、若き日の信長の教育係も務めた家臣です。
弘治2年(1556)、秀貞は柴田勝家らとともに、信長の弟・信行を擁立し信長に反旗を翻すも敗北。けれども、その後信長に許され、外交や行政面で活躍しました。
▪️佐久間信盛(さくまのぶもり)
名門・佐久間宗家の嫡男です。織田信長の父・信秀に仕えたのちに若き織田信長の重臣となりました。
信秀の死後、信長派と弟の信行派に分かれて争いが発生した際、信盛は、一貫して信長に味方しました。家督争いが合戦に発展した「稲生の戦い」では奮戦し勝利に貢献。
以降、信長は、佐久間信盛を家臣団のトップ筆頭格として重用するようになり、その後も主だった戦に次々参戦して軍功を積み重ねました。
▪️安藤守就
「美濃三人衆」の一人で、斎藤氏から織田信長へと主君を替え信長の美濃制圧を決定づける「鍵」となった人物で、輝かしい功績を重ね、信長政権の重臣にまで上り詰めました。「豊臣兄弟!」の中では、小一郎(仲野太賀)の妻となった慶(吉岡里帆)の父親として描かれています。
また、ドラマでは登場しませんでしたが、守就の娘・阿古姫(得月院)は竹中半兵衛に嫁いだために舅と娘婿の関係にありました。
森乱は本当に強かったのか!?
森乱(森蘭丸)といえば、幼少期から信長の小姓として仕えた人物で、容姿端麗・武芸や学問に優れていた・忠誠心が強い・洞察力に長け何事にも臨機応変に対応できるなどのイメージが強いようです。
信長に重要な役目を任されたり近習として重用された逸話はあり、本能寺の変では信長のそばで最後まで槍や弓で応戦したという武勇伝はあります。
そして、森乱の父・森可成(水橋研二)は、織田家でも信頼された有数の猛将でした。また乱の兄、森長可は槍術に優れ武勇伝にも秀でていたことから「鬼武蔵」と呼ばれたほど。
森家そのものが、「武芸に励むことが当然の家」だったので、必然的に、乱も子供の頃から武芸の鍛錬を積んでいた可能性は高いでしょう。
ドラマのように、若く機敏な森乱が年配の重臣を投げ飛ばしていく……あり得るかもしれませんね。
歴史上屈指の大事件が近づいてくる…
「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、ヨーロッパの最も壮大な城に比肩し得る」と、宣教師ルイス・フロイスが絶賛した、織田信長の安土城。
その完成とともに、『京都御馬揃え』『安土相撲大会』など、賑やかなイベントが続きます。
けれども、刻々と日本の歴史上屈指の大事件といわれる『本能寺の変』が近づいてくる音が……。1話1話を丁寧に見ていきたいと思いました。
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鈴木良一著 『織田信長』 岩波新書刊
森蘭丸 澤田ふじ子(著)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

