『豊臣兄弟!』本能寺の変は信長の“裏切り”が原因?長宗我部元親との約束破り「四国説」とは

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『豊臣兄弟!』本能寺の変は信長の“裏切り”が原因?長宗我部元親との約束破り「四国説」とは

NHK大河「豊臣兄弟!」が2026年1月4日からスタートしてはや半年。

いよいよ、戦後最大のミステリーともいわれる見せ場の『本能寺の変』が近づいてきました。

「本能寺の変」ほど、その動機・理由・本当の黒幕など、諸説存在する事件はほかに類をみないのではないでしょうか。

先週、6月28日(日)放送の第25回のタイトルは『変事の予兆』。まさに「変事=本能寺の変」と思わせる予兆がありました。

グラスに注がれた水が縁まで届き一気に外に溢れ出すように、明智光秀(要潤)の忍耐がMAXに達するような出来事が勃発。

近年の研究で「本能寺の変の原因として有力」とされている『信長手のひら返し四国説』です。

光秀にとって、今まで謀反の原因になりそうな出来事はいろいろありましたが、これが最後のトリガーとなったという説に。

織田信長(小栗旬)・長宗我部元親(磯部寛之)・明智光秀を巡る『四国説』を、史実とされる記録とドラマの創作ともに考察してみました。

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物語はいよいよ『本能寺の変』へ。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

「羽衣」のシテ姿で登場した長宗我部元親

第25回『変事の予兆』で存在感を示した人物といえば、土佐の長宗我部元親でした。

天正8年(1580)、安土城の完成祝宴で、能の「羽衣」という演目のシテ(天女)を舞いました。

“一枚の美しい羽衣を拾った漁師と羽衣の持ち主の天女の物語”で、全国にある馴染み深い伝説のため、現代でも大変人気のある演目です。

史実では、元親が「能」を習い、能役者として優れた技量を持っていたかどうかを知る一次資料は今のところ確認はされていません。

高知市の公式サイトでは「元親は早くから都の文化の吸収につとめ、一門の者に習わせたといわれている。」とあり、戦国武将らしく、茶の湯や能など文化芸能を積極的に取り入れた可能性はあるでしょう。

一方、信長が「能」を愛好していたのは有名です。特に、「敦盛」の『人生五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり…』 の一節を歌い舞い出陣する場面は有名ですよね。

実際、信長は「相撲大会」のみならず、能・茶会・猿楽などの文化的催しも頻繁に開いていたとか。

「羽衣」のシテの面を外すと元親が現れ、信長から「見事である」と褒め言葉をもらうという場面は、元親がただの猛将ではなく「能を舞う教養人でもある」こと、この時点では信長とは友好関係にあること、光秀の仲介も順調なことを表しています。

この後訪れる、理不尽な突然の『手のひら返し四国説』の対比を効果的に際立たせるためかも……と思いました。

今回のタイトルは『変事の予兆』。

天下一の豪華な安土城、賑やかな祝宴、艶やかな能、信長の満足そうな褒め言葉という平和で美しいひととき。けれども、これは崩壊の直前の儚い時間であった…ということを知っている我々にとっては、確かに『変事の予兆』に感じました。

羽衣 能樂百番 月岡耕漁 wiki public domain

長宗我部元親と小一郎の出会い

ドラマでは、宴で行われた突然の「恐怖の相撲大会」により、家臣たちの間に芽生えた不安や恐れなどの暗い影を払拭しようと、お市(宮﨑あおい)が「織田家の威光を取り戻し家臣たちの士気を上げるため『京都御馬揃え』を行おうと提案します。

実は、相撲大会で「裏切りの疑いがある」老臣を追放し、忸怩たる思いに沈む兄・信長の心中を察してでのことでした。

ドラマでは、少ししか登場しませんでしたが、実は畿内および近隣諸国の大名・小名・武将たち、丹羽長秀や柴田勝家をはじめ織田軍団の各軍700人ほど、見物人は約20万人も集まったほどの華やかな軍事パレードだったのです。

『京都御馬揃え』(NHK「豊臣兄弟!」公式instagramより

そんな賑やかな場で、小一郎(仲野大賀)は偶然、元親に出会います。

元親は、紅藤や薄水色ベースに、色とりどりの紅葉と流水柄の着物に、藍色にえんじの羽織という艶やかな女性用の衣装をまとっていました。

ちなみに、流水に紅葉の柄は伝統的な紋様で、紅葉は季節ごとに色を変えるので「長寿」を表現すると共に「世渡り上手」という意味があるそうです。

「おまんも、馬揃えを見に参ったがか」というバリバリの土佐弁なのに、膝を揃えているレディライクなポーズと、一口ずつお団子を上品に食べる所作のバランスが可愛い、元親殿。

元親の艶やかな姿に息を呑む小一郎に、「わしは幼き頃から女子のようじゃとよう言われよってのう、姫和子などと呼ばれたもんよ」と、有名な「姫和子」の逸話にも触れました。

「今もこのような姿でおるとなぜか、穏やかな心持ちになれるがじゃ。できることならずっとこのまんまでおりたかったけんど、そうもいかん」と顔を曇らせました。

「戦がお嫌いなのですか……?」と、思わず問う小一郎に、「戦は好きか嫌いかでやるもんじゃあない。四国を一つにするがは我ら土佐の大願じゃき」と答えます。

「なしえたあかつきには土佐へ遊びに参れ。うまい魚をこじゃんと馳走するき」と小一郎に約束したのでした。

こんな風に友好的に語り合っていた元親と小一郎。この直後、信長が手のひらをかえすような元親への仕打ちで、友好関係は決裂、間を取り持つ明智光秀は追い詰められていくことになるとは、夢にも思わなかったことでしょう。

そして、さらに5年後、天正13年(1585)「四国攻め」にて総大将・豊臣秀長(小一郎)は、元親を叩き潰す運命にあります。

『京都御馬揃え』では艶やかな装いで、見物を楽しんでいた長宗我部元親だが。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)

元親の力を利用するもその勢力を危険視した信長

長宗我部元親は、天文8年(1539)に高知県南国市にあった岡豊城で誕生しました。

色白で本ばかり読んでいるおとなしい性格の子供で、ドラマのセリフのように家臣たちに影で「姫若子さま」と呼ばれていたとか。

青年期になっても「槍の突き方も知らないうつけ」などと陰口を叩かれるも、22歳という遅めの初陣「長浜の戦い」にて周囲の予想に反して自ら槍を持って突撃し大活躍。

当時、土佐の最大勢力であった本山氏に勝利します。驚いた家臣たちは「鬼若子」「土佐の出来人」と褒め称えたのでした。

その後、本山氏を降伏させ土佐中部の制圧に成功、土佐東部を支配していた安芸国虎に勝利、天正3年(1575)には四万十川で一条兼定と土佐の覇権をかけた戦いを行い圧勝します。

信長は、元親の四国での勢力拡大を容認し同盟を結び、阿波国に侵略し織田側の敵・大阪本願寺に味方する阿波三好氏の攻略をさせようとしました。

ところが、天正8年(1580)に大阪本願寺との戦いが和睦によって終結すると、信長は四国全土に広がりそうな元親の勢力を危険視するようになったといいます。

そこで、ずっと間に入って交渉していた光秀に「元親による四国平定を認めない」「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」の、手のひら返しの状態になったそうです。

3年間も「四国全土を攻略していいぞ」と言われ励んできたのに、信長のこの仕打ち。さらに、元親の攻略相手の三好安康長に阿波一国を統治させることにしました。

信長は、光秀を通じて元親に「領土は土佐一国だけで納得しろ」と伝えたのでした……この仕打ちは、元親からも光秀からも怒りを買って当たり前でしょう。

「本能寺の変」が近づくとともに、目から光が無くなっていく信長。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより

約束を踏みにじる信長に「もはやこれまで」

「豊臣兄弟!」で描かれていたように、信長と元親の仲を取り次いでいた明智光秀は、信長の手のひら返しや要求を伝えなければならない役を負わされます。

さらに、当然ながら元親には難色を示され、かなりストレスを抱える状況だったでしょう。

444年も前の出来事なのに、まるで現代のことのようです。言うことがコロコロ変わる理不尽な上司の裏切りを、取引先に伝えなければならない気苦労や怒りは、今でも全く変わっていません。それだけに光秀が謀反を起こす気持ちは500%理解できます。

実際、光秀が信長の命令「領土は土佐一国」を伝えてからは、元親から返事ももらえなくなったとか。

光秀は元親にこの条件で納得するように説得している真っ最中、信長は三男・織田信孝を総大将にして元親征伐のための四国出兵命令を下しました。

取次役の立場を全く無視された光秀。部下のメンツも立場も今までの苦労も全て潰す……これ、絶対に上司がやってはいけないこと。

元親を説き伏せられないことでどれほどの処分をくだされるか恐怖に震えるとともに、今までの忍耐も「もはやこれまで」と思ったのではないでしょうか。光秀の気持ちが1000%理解できます。

とうとう光秀は、明智家の存続もかけて、織田信孝が挙兵する予定だったという天正10年(1582)6月3日の前日、「本能寺の変」を決行することになったそうです。

元親と光秀の仲を取り持った、光秀の家老で絶大な信頼を置かれていた斎藤利三も立場を失った存在で、本能寺の変を後押しした存在ともいわれています。

結局、光秀の謀反により四国征伐から逃れることができた長宗我部元親ですが、信長没後は豊臣秀吉が脅威となっていきます。

ずっと苦悩の人だった明智光秀。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより

信長は「讒言者の言うことを間に受け従った」説が

平成26年(2014)に公表された『石谷家文書』では、光秀の立場がより詳しくわかるようになったとか。

『本能寺の変の再検証』

〜天正9年(1581)、長宗我部元親をめぐっては、同氏を悪く言う讒言者(虚偽を含む内容を訴え告げることで、人を陥れようと目上の者に進言する人)と、関白・近衛前久・明智光秀の間で総論があった。

信長は讒言者の意見を尊重して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者とは、信長の側近で堺の代官・松井友閑である。光秀は松井友閑に外交面で敗北した。〜

(論文『本能寺の変の再検証』熊田千尋 抄録)

果たして、信長をその気にさせる讒言者は登場するのでしょうか。

7月12日(日)放送『本能寺の変』の予告では、信長は手のひら返しの上に「信孝に四国総攻めを命じる」場面、徳川家康をもてなした料理に毒が入っていた?と疑い担当の光秀を激しく打ち据えられる場面とともに、限界に達した怒りの形相の光秀の「敵は本能寺にあり」のセリフが。

光秀が不憫過ぎて私だったら明智軍につく……と思うほどのVTR。

『本能寺の変』パートが始まりに伴い、相関図も激変しました。

たとえば、前述の明智光秀の懐刀、斎藤利三には内藤剛志さん、阿波国守の三好康長には妹尾正文さんが新登場します。

光秀が信頼を寄せる、斎藤利三。(NHK大河「豊臣兄弟!」公式「X」より)

明智光秀の謀反により、激流のように変化していく勢力図と歴史。
流れる時と人間の死は変えられないとわかっているだけに、この先を思うと心塞がれるものがあります。

史実(と今現在されていること)と創作で、後半のドラマがどのような怒涛の展開になっていくのでしょうか。

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参考:
高知市公式サイト:長宗我部元親
長宗我部元親と四国 (人をあるく) 津野 倫明著
『本能寺の変の再検証』熊田千尋 抄録

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