【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯

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【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯

いよいよ『本能寺の変』が近づいて来た、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。

前半期が終わる6月半ばに突然、新キャスト発表でSNSをざわつかせた人物といえば、武将・斎藤利三です。

演じるのはベテラン俳優の内藤剛志さん。

「この段階で、大物俳優を斎藤利三にキャスティングするとは……本能寺の変は『四国説』でいくのか!?」という、筋読みでざわついたのでした。

本能寺の変は、信長への怨恨説・光秀野心説・信長の神格化阻止説・足利義昭黒幕説・朝廷黒幕説ほか複数存在します。

なかでも近年、有力視されているのが『四国説』です。

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信長が、長宗我部元親に対する「四国平定の方針」を急に変え、二人の間で調整役を長年務めた明智光秀と家臣・斎藤利三が面目を失い、政治的に苦しい立場に置かれ謀反を起こしたという説です。

前回『変事の予兆』でも、信長が光秀(要潤)に突然「長宗我部元親(磯部寛之)の四国平定を認めない」宣言をし、光秀が驚愕の表情を浮かべるという場面が描かれていました。

主君と同じ無念な思いを抱いた“光秀の右腕” 斎藤利三。

光秀とともに信長に反旗を翻し最期の運命を共にした、斎藤利三の生涯を探ってみました。

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“光秀の右腕” 斎藤利三。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)

稲葉良通から明智光秀の家臣となる斎藤利三

『本能寺の変』のキーパーソンともいわれている斎藤利三。

生年は、天文3年(1534)もしくは天文7年(1538)頃、父は伊豆守某か伊豆守利賢など、母も明智光秀の妹、親順の女とするもの、妻についても稲葉良通の女、姪とするものなどがあり、生い立ちは諸説ある人物です。

『寛政重修諸家譜』によると、摂津国の松山新介に仕え京都白河の軍事をつとめ、次に美濃国の斎藤道三の嫡子・斎藤義龍に仕えました。

その後、美濃三人衆(稲葉良通・安藤守就・氏家直元)の一人、稲葉良通が織田氏に寝返ると共に、良通の家来になったと伝わります。(与力だった説も)

『信長公気』によると、元亀元年の金ヶ崎撤退戦の直後は、良通のもとで一揆の鎮圧などで働いたようです。

けれども、明確ではありませんが、軍功をあげたのに良通の待遇が悪いこと、良通への諫言が退けられたなどで、元亀元年(1570)良通の元を離れました。

そして、利三はまさに当時「絶賛売り出し中」の明智光秀の家臣になるのでした。

さらに、時を経て天正10年(1582)、同じく良通の家臣である那波直治が稲葉家を致仕して光秀の家臣になったため、これにキレた良通は信長に直訴。

信長は、直治・利三を戻すように命じるも、光秀は拒否したために、激怒した信長が光秀を殴ったことが本能寺の変につながった……という説もあるそうです。(『稲葉家譜』

稲葉良通。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)

「できる武将」利三は筆頭家老として光秀を支える

400〜500年近く前の戦国時代は、好待遇を求めて主君を変えることは当たり前でした。より良い条件でスカウトの声がかかるほうが「できる人材」と評価されたことになるので、ステータスでもあったとか。

まるで現代の転職マーケットのようですが、斎藤利三はまさに「できる武将」として評判だったそうです。

当時、信長から丹波国の攻略を命じられていた光秀は、4年がかりでようやく制圧に成功します。利三は天正8年(1580)に丹波・黒井城の運営を任されました。

ところが、長い戦いの上に手に入れた黒井城は、城門も城壁もボロボロ状態で、周辺の田畑も荒れ果てていたので、周辺の民たちは新たなる支配者・利三を歓迎しませんでした。

そこで、明智軍が基地として使った白毫寺の僧たちに「人足役」(課される労働)を免除する政策を打ち出すなど、地元民と良好な関係を築き上げるために、さまざまな対策を行いました。

利三は、光秀の元で現地支配や軍事動員に関わる実務を任され、明智秀満と並ぶ明智氏の筆頭家老に。1万石を与えられて丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたりました。

黒井城。隅櫓の石垣 wiki

手のひら返しの信長に光秀とともに謀反を起こす

本能寺の変、『四国説』とは、以下のような内容です。

天正8年、織田信長は大阪本願寺の戦いが完全に終わると、今まで認めていた「長宗我部元親の四国平定」を認めないと方針をひっくり返しました。

光秀を通じて「支配するのは土佐と阿波南半分で我慢するよう」に命じるも、元親は拒否します。

これに対して信長は、阿波三好家出身の三好康長に治めさせることにし、翌10年1月、元親に「土佐1国だけで我慢しろ」と光秀を通して伝えます。

突然の手のひら返しの信長のやり方に激怒した元親は、返事もしなかったとか。

長宗我部家の滅亡を恐れた光秀は元親を説得しますが、その最中に、信長は三男の織田信孝を総大将にして、元親征伐を兼ねた四国出兵を命じたのでした。

長年、元親と信長の取次をしてきた努力をむげにする信長のやり方に怒りを感じた光秀は、明智家の危機と捉え謀反を決意しました。

元親の妻は、光秀の重臣・斎藤利三の義理の妹だったとか。そんな縁があって、光秀は取次役を一手に引き受けたのですが、もちろん利三も関わっていたので、立場を失ったのは光秀同様でした。(『元親記』)

ただ、『石谷家文書』によると、天正10年(1582)5月21日付で、長宗我部家元親が、斎藤利三に宛てた書状が残っているとか。

それによると……

「一宮城、夷山城など阿波にある主要な城5つからは信長の命令通り退城するが、海部城など2つの城は土佐の玄関口にあたるので所有を認めて欲しい」

と、信長への取り次ぎを懇願しているそう。

元親は徹底的に信長と戦いたかったわけではなかったようです。

そのため、光秀と利三の謀反の動機は、「元親への手のひら返しへの復讐」とも考えづらく「立場を潰された復讐」ともいいづらく、見解はそれぞれの研究者によって異なります。

やはり、「信長の息子・信孝が元親征伐で大勝利を収めたら、明智家の面子は潰されたうえに存亡に関わる」ので、その前に謀反を起こした……のが一番自然なのではないかと言われているのですが。

長宗我部元親。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より

「斎藤蔵助、今度謀反随一」いう記録が

天正10年(1582)、明智光秀は斎藤利三ら五人の側近を集めて、信長への謀反を打ち明けます。

最初は、断固として謀反に反対した利三でしたが、周囲が皆賛成したために同意します。

6月2日、信長のいる本能寺を約13,000人の明智軍が問い囲んで襲撃したときに、真っ先に突入したのが斎藤利三だったともいわれています。

その後、光秀は安土城に入り、朝廷に対して自分が天下を治める作戦を開始。このときに光秀と朝廷の仲介を務めた吉田兼見は、光秀から『斎藤蔵助、今度謀反随一』と聞いたという記録が、当時の公家の日記に残っているそうです。

この文は、「このたびの謀反の張本人は斎藤利三」と解釈する説と、「このたびの謀反でもっとも手柄をあげたのは斎藤利三」と解釈する説があり、真実は謎となっています。

ただ、利三が信長を嫌っていたと考えられる出来事もありました。

前述した、稲葉良通が信長に「光秀に家臣だった斎藤利三と那波直治を返すよう」と直訴したときのこと。

信長は那波は稲葉家に戻し、「利三は切腹を申しつける」という一方的な命令を下しました。さすがに、あまりの仕打ちに周囲がとりなし中止になったそうです。

長宗我部に対する手の平返し事件といい、切腹命令といい、理不尽な信長に怒り心頭になった利三が、光秀に謀反を働きかけたともいわれています。

本能寺焼討之図 楊斎延一画 wiki

捕縛され洛中引き回しのうえ六条河原で斬首

斎藤利三は本能寺の変の後、洞ヶ峠に陣を敷き追手を警戒しました。

ところが、敵討のために中国遠征を中断し、猛スピードで羽柴秀吉軍が追ってきたので、光秀に急いで居城であった「坂本城(滋賀県大津市)に入り、戦闘体制を敷くよう」に進言します。(※)

けれども、光秀は聞き入れずに全軍を山崎に集結して、羽柴軍を迎え撃つよう命じました。(「山崎の戦い」

山崎が淀川に挟まれた幅の狭い地形のため、縦長になり進軍してくるであろう秀吉軍を迎え撃つ作戦でした。

本能寺の変から11日後、6月13日、山崎の地に到着した豊臣秀吉軍の数はおよそ40,000人で、明智軍は約16,000人。雨降りしきる中で始まった戦いは、短時間で勝負がつき、ここに明智光秀の短い天下は終わったのでした。

明智光秀は、夜更けに妻子がいる坂本城を目指すも、山科小栗栖にさしかかった時、落武者狩りに遭遇、竹薮から突然突き出された竹槍に刺され重傷を負い、その場で自刃して果てました。

斎藤利三は戦場を逃れて潜伏しつつ逃亡生活をするも、秀吉軍の捜査網により戦いからわずか4日後に捕縛されます。

そして、洛中を引き回された後に六条河原で斬首されました。利三の遺体と光秀の遺体は見せしめとして粟田口にさらされたそうです。

『太閤記』の著者、小瀬甫庵は、このとき光秀が斎藤利三の提案を聞いて坂本城に戻って戦っていれば、違った展開になっていただろうと、利三を評価していたそう。

齋藤内蔵助利三 落合芳幾 public domain

利三の遺体は親友が奪還!父の無念は娘が果たす

処刑後、斎藤利三の親友で、建仁寺方丈『雲龍図』で知られる絵師・海北友松が、京都の真如堂東陽坊の住職・東陽坊長盛と共に、処刑場に長槍を持って侵入しました。

目的は斎藤利三の遺体の奪還。二人は槍で番兵を追いやり、遺体奪還に成功。真如堂で遺骸を手厚く葬りました。

今でも、真如堂には東陽坊長盛・海北友松・斎藤利三の墓があります。

さらに、利三の娘「福」は小早川秀秋の家臣・稲葉正成の妻となるも、離婚して大奥に入ります。そして徳川家光の乳母となったうえ、それ以上の実権を握る人物となり老中をもしのぐ権力者「春日局」となりました。

謀反人として処刑され晒されるも、遺体を奪還して手厚く葬ってくれた男気と勇気のある親友と、父親に代わり立身出世を果たし天下を動かすほど権力を握った娘を持った武将・斎藤利三。

「豊臣兄弟!」ではどのように描かれるのでしょうか。

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参考:
明智光秀と斎藤利三 桐野作人
石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世 浅利尚民

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