『豊臣兄弟!』本能寺前夜の死亡フラグ…信澄の黒幕説は本当か?史実を交え第26回の伏線など考察
謀叛の疑いをかけられた信澄(緒形敦)の赦してもらおうと、秀吉(池松壮亮)と小一郎(仲野太賀)は、信長(小栗旬)を接待する盛大な宴会を催します。
何やかんやあって信長は信澄を赦したものの、当の信澄は明智光秀(要潤)をそそのかし、本当に謀叛を企んでいたというまさかの展開でした。
今週も大いに視聴者を沸かせた第26回放送「信長を笑わせろ!」今週も気になるトピックを振り返ってまいりましょう。
なぜ信長は長宗我部元親を見放した?
激怒する元親。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
信長が長宗我部元親(磯部寛之)との約束を反故した理由を、劇中では「気が変わった」と言い捨てています。果たして本当にそんな理不尽だったのでしょうか。
元親は土佐一国を斬り従えはしたものの、反骨心を強い国人衆を心服させるだけの権威はありませんでした。
今は勢いがあって逆らうのは得策でないから従っているだけで、ひとたび態勢を崩せばたちまち瓦解していたことでしょう。
国人衆とすれば、自分たちの所領や利権が守られればよいわけで、元親の四国切取りを支える義理もメリットもありませんでした。
信長はそれを見通して四国対策の主力を三好康長(妹尾正文)に切り替え、織田信孝(結木滉星)を総大将に据えたようです。
とは言え、これまで長宗我部との連絡調整を担ってきた光秀とすればいい迷惑で、この方針転換が本能寺のキッカケになったとする説もあります。
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『豊臣兄弟!』本能寺の変は信長の“裏切り”が原因?長宗我部元親との約束破り「四国説」とは 秀吉の鳥取攻めとは?
秀吉がその死を悲しんだ名将・吉川経家(画像:Wikipedia/Terumasa氏)
劇中で少しだけ言及された「鳥取攻め」とは、天正9年(1581年)の7月から10月にかけて、毛利の武将・吉川経家(きっかわ つねいえ)が立て籠もった鳥取城(鳥取県鳥取市)に対する兵糧攻めなどです。
秀吉はあらかじめ敵領内に商人を送り込み、兵糧を買い占めることで敵を干上がらせました。完全に孤立した城内では餓死した者の人肉を切り取っては奪い合い、子は親を食い、弟が兄を貪ったと伝わります。
この「鳥取の飢え殺し(かつえごろし)」は以前に行われた「三木の干殺し(ひごろし/ほしごろし)」に匹敵する地獄絵図を描いた挙げ句、吉川経家の切腹で幕を下ろしました。
経家が「自分の首級と引き換えに、城兵の命を助けてほしい」と申し出たところ、秀吉はその死を惜しんで重臣だけ切腹すればよい旨を伝えます。
しかし経家の決意は揺るがず、秀吉は仕方なくその意向を信長に伝え、切腹させても構わないとの許可が出ました。
そして10月25日に経家は自害して果て、秀吉はその死を惜しんで「哀れなる義士かな」と男泣きしたそうです。実はそのようなことがありました。
秀吉の養子・羽柴秀勝とは?
末頼もしい秀勝。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
嫡男がいない秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(柊木陽太)は、永禄11年(1568年)に信長の四男(※)として誕生しています。
(※)劇中および公式サイトでは五男とされていますが、信長の五男は織田勝長(幼名:御坊丸)ではないのでしょうか?何か新発見があったのかもしれませんね。
幼名は次もしくは於次丸(おつぎまる)、秀吉の子供には同姓同名の羽柴秀勝が3人(※)いたため、便宜上「於次丸秀勝」と呼ばれてきました。
(※)実子とされる石松丸秀勝は既に死亡、於次丸の死後に養子とした小吉秀勝(姉ともの次男)の3人です。
次の備中攻めで初陣を果たし、天正10年(1582年)3月の赤旗城攻めで武功を立てたほか、4月から始まる備中高松城攻めにも参陣します。
いっぽう政治面ではすでに活躍しており、秀吉が出陣して長浜に不在の際は、自身の名前で文書を発給していました。もちろん補佐役はついていたでしょうが、末頼もしい後継ぎですね。
その後も山崎の戦い・賤ヶ岳の戦い・小牧長久手の戦いなど歴戦しますが、若くして亡くなってしまいました。
本作ではこれらの活躍がどのように描かれるのか、信長ゆずりの英雄ぶりに期待しましょう。
「よき侍になりおったわ」信長のお墨付き
最後の逢瀬。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
ドンチャン騒ぎから一夜明けて、長浜城の天守閣で信長と秀吉が二人きりで話しています。
信長「空には境目がない。境目がなければ争いが起きることもない。空はどこまでも一つじゃ。わしは、そういう国をつくりたい」
なるほど、上様は左様(そのよう)にお考えなのですね。しかし畏れながら、もし国に境目がなければ、どこまでも攻め込んで来るのが人間というものにございます。
そもそも土地だって海川だって、元より境目などはございますまい。人間の都合で境目を設け、その実体なき境目をめぐって、数千年にわたって戦い続けてきたのです。
また世界中を一つの国家が征服すれば境目がなくなるかと言えば、そんなことはありません。境目がなければ強い者が際限なく奪い、弱い者は際限なく奪われ続けるのが、残念ながら人間の業と言えます。
信長の発言を受けて、秀吉は後の天下獲りを予言するように宣言しました。
秀吉「ならば拙者は太陽になりまする。わしが太陽になって、上様がつくり上げたこの国を照らし続けまする」
太陽は偉大なる天空に輝く星の一つに過ぎない。そういう考えが当時あったのかはわかりませんが、太陽すなわちお天道様であり、神々の頂点に立つ天照大御神そのものです。
信長「このたわけが!それではお前が一番目立つではないか」
やはり信長も怒るか?と思いきや、自分の羽織を秀吉に賜わり、
信長「よき侍になりおったわ。さっさと毛利を倒してまいれ。戻ったら次は……茶会でもするか」
と、しっかりと死亡フラグを立てつつ、秀吉に次の天下人たるお墨付きを与えたのでした。
織田信澄は本当に謀叛を企んだ?
信澄にかけられた嫌疑。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
光秀に「信長を討て」と偽の書状を送ったという信澄。足利義昭(尾上右近)の花押も偽造したのでしょうか。
かつて信長に謀叛を起こして粛清された織田信勝(中沢元紀)の遺児として、大切に育てられてきた織田信澄。はじめ柴田勝家(山口馬木也)の養子となった後、浅井旧臣の磯野員昌(いその かずまさ)に養子入りします。
そして天正3年(1575年)の越前一向一揆や天正4年(1576年)の黒井城攻め、天正6年(1578年)の本願寺攻めなど歴戦しました。
天正9年(1581年)1月の京都御馬揃えでは連枝衆(織田一族)の5番目に名前が挙がっていて、叔父の織田信包(のぶかね)や従兄の信孝と同格に扱われています。
同年4月には和泉国で信長に逆らった槇尾寺(まきおでら。大坂府和泉市)の僧侶800名を皆殺しとした後、焼き払いました。これが劇中に襲撃を受けた場面のモデルだったのかもしれません。
続く同年9月には織田信雄(山脇辰哉)の指揮下で伊賀攻め(天正伊賀の乱)に従軍し、武功を立てました。戦後に恩賞として大和国を賜わるよう信長に直訴しますが「大和は神国である」からと拒否されたと伝わります。
後に天正10年(1582年)3月に甲州征伐(武田滅亡)、同年5月に四国遠征軍の一員として加わったものの、舅の光秀が京都で謀叛を起こしたため……さて、どうなってしまうのでしょうか。
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楽しそうで何よりです。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
信長「おかげで、楽しいひとときであった」
お楽しみいただけたようで、何よりです。今回のホームパーティを通じて、秀吉がとことんまで上様一筋であり、信長が呆れつつも羽柴兄弟に誑されてきた絆が描かれました。
さて、羽柴兄弟と信長が今生の別れをすませ、次週はいよいよお待ちかね?本能寺の変が描かれます。
「時は今じゃ」
果たして信澄のセリフは、かの有名な「あめがしたしる さつきかな」につながるのでしょうか。次週も目が離せませんね!
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