戦国時代、豊臣秀吉はなぜ「横山城」をあっさり捨てた?長浜移転に隠された“天下取り”の始まり (2/4ページ)
こうした状況を踏まえると、秀吉が横山城を捨てる判断を下した背景が、少しずつ浮かび上がってきます。
交通の要衝へ浅井氏滅亡後に北近江三郡を与えられた秀吉は、すぐに今浜(のちの長浜)へ移ったようです。『信長公記』には長浜築城そのものは記されていませんが、このことは間違いありません。
ではその後、秀吉はなぜ長浜という土地を選んだのでしょうか。ここで鍵となるのが、琵琶湖畔という立地です。
長浜は湖上交通の結節点であり、北陸と畿内を結ぶ物流の要でした。山城の横山とは比べものにならないほど、政治・経済の中心としてのポテンシャルを秘めていたのです。
この長浜への移動は信長の指示とも、秀吉自身の判断とも考えられますが、どちらにせよ“山城から平地の城へ”という流れは時代の潮流に合致していました。
戦国後期になると、城は単なる軍事拠点ではなく、城下町を抱える行政・経済の中心へと変化していたのです。
秀吉はその変化を敏感に読み取り、北近江支配の基盤を山上から湖畔へ移すことで、新たな領国経営の形を描こうとしていたのでしょう。
横山城は戦うための城であり、長浜は治めるための城だったということです。この対比こそが、秀吉の判断の核心でした。
天下人の視点長浜への移転は、秀吉の出世物語の中でも特に象徴的な場面です。