『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!光秀を謀反へ走らせた家康共謀説・四国説・武田内通説
織田信長(小栗旬)に仕えて以来、その信頼を得て軍務と政務に追われ続ける明智光秀(要潤)。しかしそれによる疲弊が光秀の心身を徐々に蝕んでいきます。
それに加え、味方諸将の相次ぐ裏切りと粛清されていく宿老たち。そのような要素が複雑に重なり合ったことが、「本能寺の変」に繋がったと考えられます。
しかし、冷静な判断力と優れた統率力を備えていた光秀が、それだけの理由で主君・信長討伐という重大な決断に踏み切ったとは考えにくいのです。おそらくは謀反を起こさなければならない切実な事情があったことでしょう。
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『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!明智光秀(要潤)を極限まで追い込んだ信長政権の現実光秀を動かした原因とはなにか、従来から唱えられてきた「信長への怨恨説」「天下取りへの野望説」だけでない、近年注目される諸説をひも解きながら「本能寺の変」のもう一つの側面に迫ります。
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信長を襲った刺客を倒す光秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
信長の方針転換が光秀を追い詰めた「四国説」『豊臣兄弟!』では「本能寺の変」の原因として、いわゆる「四国説」の一部を採用するようです。
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『豊臣兄弟!』本能寺の変は信長の“裏切り”が原因?長宗我部元親との約束破り「四国説」とは第25話「変事の予兆」では、土佐国主の長宗我部元親(磯部寛之)に対し、四国の切り取り放題を容認していた信長が、手のひらを返したように認めないと言い出します。
この話を聞かされた光秀は「なぜでございます」と困惑の表情を浮かべ信長に問いかけます。信長は「気が変わったのじゃ。うまく説き伏せよ」と言い残し上座から立ち去りました。
その場に残された光秀は激しい衝撃を受けるとともに、怒りを押し殺すかのようにぐっとこぶしを握り締めるのでした。
信長の言葉に呆然とする光秀。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
信長が元親に四国平定を容認したのは、織田側の事情によるところが大きかったというのが実状です。そのころ信長は大坂本願寺と戦っていましたが、本願寺と同盟する中国の毛利氏などが本願寺に物資を搬入するなど、その後方支援を行っていました。そのために羽柴秀吉(池松壮亮)を総大将として播磨・但馬を攻略することで、その分断を図ったのです。
しかし、別所長治をはじめとする播磨諸将、さらには摂津の荒木村重までも信長に反旗を翻し、中国側の瀬戸内掌握に失敗します。このような状況で、四国側の瀬戸内を毛利氏に支配されると、織田家にとっては壊滅的な痛手になるところでした。
そこで信長は元親の四国平定を半ば利用するかのように、阿波・伊予の反信長勢力と戦わせていました。ここまでは、信長と元親の利害関係が一致していたのです。そして、その取次役を行ったのが光秀でした。光秀が取次に選ばれたのは、元親の正室が光秀重臣の斎藤利三(内藤剛志)の義理の妹だったためとされます。
【豊臣兄弟!】実は本能寺の変の“黒幕級”だった?明智光秀(要潤)の右腕・斎藤利三(内藤剛志)の生涯
斎藤利三。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
ところが1580年(天正8年)になると、事態は急変します。播磨・摂津の反織田勢力を降し、本願寺との和睦が成立したのです。こうなると、四国平定を目指す元親は、信長にとって危険な存在となりました。
そこで信長は元親に土佐一国および阿波半国の領有のみを認めるとします。さらにその後、その阿波も元親と敵対関係にあった三好康長に領有を認めるという朱印状を渡し、元親には土佐一国だけを認めるとする屈辱的な命令を突き付けました。
こうなると元親の気持ちは収まりません。もとより元親は四国平定においては、すべて自らの兵力だけで戦ってきたのです。ドラマのなかで元親が光秀に詰め寄って発した「どれだけ長宗我部の血が流れたのか!」という言葉は真実でした。
光秀の説得を拒絶する元親。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
長宗我部氏を都合よく利用し、必要がなくなると切り捨てるという信長のやり方に、元親が強く反発したのも無理はありません。そして、信長への信頼を失ったとしても不思議ではないでしょう。。
2014年(平成26年)に発見された『長宗我部元親書状』には、このような状況のなかで、光秀と元親と縁戚関係がある利三が苦慮した様子が記されています。信長の要求が道理に合わないと考えながらも、「ここで信長の言うことを認めなければ、ついには土佐一国も危ない」と光秀は元親に懸命に説得を重ねました。
ところがその説得が進展しないと判断した信長は、三男の織田信孝(結木滉星)を総大将に長宗我部征伐を兼ねた四国への出兵を決定します。そして遠征軍が四国に向けて渡海する前日の1582年(天正10年)6月3日、「本能寺の変」は起きました。
元親との折衝を重ねるなかで、光秀の胸中にも信長への不信感が募っていったと考えることは十分可能です。それが「本能寺の変」の背景に、四国政策の転換があったとする「四国説」の根拠となっているのです。
武田氏との密約はあったのか?「武田内通説」の真相「本能寺の変」の約10日後の1582年(天正10年)6月13日、大山崎において光秀と秀吉が激突する山崎の戦いが起きます。
結果は周知のとおり、明智軍の惨敗に終わり光秀は居城坂本に退く途中で、落ち武者狩りにあい自害して果てました。この戦いの後、明智軍の残党が細川家を頼っています。その一人に、利三の三男・斎藤利宗(としむね)がいました。
山崎の合戦に敗れ敗走する明智光秀。太平記屋間埼大合戦之図/歌川芳虎作(Wikipedia)
そもそも光秀と細川氏の縁は深く、光秀が流浪の境遇であったとき、室町幕臣だった細川藤孝(幽斎)に仕えていたという記録があります。光秀が信長に出仕すると藤孝も信長に仕え、光秀の娘・ガラシャが藤孝の嫡子・忠興に嫁ぎ、両家は縁戚関係で結ばれていたのです。
史学博士の磯田道史氏は、肥後熊本藩主の細川家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』には、利宗から聞き出した光秀謀反の理由が記されていると指摘します。
その内容は、「武田の一族である穴山梅雪が信長に降参した。その穴山の口から光秀の武田への内通が露見するのを恐れ、取り急ぎ謀反心を起こした」というものです。
これによれば、武田信玄存命中からであったのか、あるいは勝頼の代になってからなのか定かではないものの、光秀はかねてから武田氏と内通していたことになります。
ではなぜ、光秀が武田氏と誼を通じるようになったのでしょうか。それについて筆者は、信玄に招かれて恵林寺の住持を務めていた名僧・快川紹喜(かいせんじょうき)との関係を考えます。
光秀の出自には多くの謎がありますが、美濃明智氏の出であり、斎藤道三に仕えていたという説が有力です。紹喜はそもそも美濃崇福寺の住持で斎藤氏の外交僧としての顔も持っていました。しかし、義龍との間に起きた宗教上の対立(永禄別伝の乱)により、一時期美濃を離れ、そのころから信玄と親しくなります。
ただ龍興の代になると、斜陽の斎藤氏を支えるために武田氏との同盟を締結するなど、美濃と甲斐の間を奔走しました。つまり斎藤氏と関係の深かった紹喜をつうじて武田氏に接近し、その外交役であった穴山梅雪となんらかの情報交換を行っていた可能性も考えられるのです。
武田勝頼。『天目山勝頼討死図(歌川国綱画)』(Wikipedia)
もっとも梅雪は武田勝頼を裏切り、主家の滅亡に大きな影響を与えた人物です。仮に光秀の武田氏との接触が、梅雪をはじめとする武田氏重臣の調略であるなら、光秀にとって梅雪は味方となる存在であったはずでした。
しかし光秀は、その梅雪の口から武田内通が漏れることを恐れます。そこにはただの調略ではない、なにかがあったのかもしれません。
利宗による供述が真実だとすると、「本能寺の変」が起きた背景には、武田氏滅亡の影響があった可能性が高いと考えられるのです。
光秀と家康は手を結んだのか?「共謀説」を検証さて最後に紹介するのは、光秀と徳川家康(松下洸平)が協力して信長を葬ったという「光秀・家康共謀説」です。
実はこの説は、2023年(令和5年)に放映された大河ドラマ『どうする家康』で採用され話題となりました。
信長は家康の暗殺を光秀に命じます。また家康も信長に害される危険があることを察知します。織田家での行く末に不安を感じる光秀は、家康と事前に示し合わせ、それぞれが信長暗殺を計画するのです。
徳川家康。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
ただ、家康はお市の方に説得され、信長暗殺を思いとどまりました。しかし光秀は上洛した家康を襲うとみせかけ、軍勢を率いて京都へ向かいます。つまり家康暗殺という信長の命令に従う振りをして、本能寺にいる信長を襲ったのです。
光秀配下の本城惣右衛門は『本城惣右衛門覚書』に「家康様がご上洛されているので、我らは家康様を討つものとばかり思っていました」と記しています。いつの世も同じですが、下の立場の者たちの間で広がる噂は、ときに真実味があると思われるのです。
また、光秀の子孫である歴史作家・明智憲三郎氏は、信長が天下統一を成し遂げた後に、唐入り(明の征服)を企んでいたとし、太平の世を望む光秀がそれを阻止するために「本能寺の変」を起こしたとする説を提唱しました。
この説によると、武田氏滅亡後に東日本に勢力を拡大する徳川氏を脅威に感じた信長が、光秀に家康殺害を命じるものの、かねてから誼を通じていた家康と共謀して信長を討ったというものです。
本能寺で炎に包まれる信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
しかしながら、この説を裏付けるような一次資料は存在しません。ただ、古くから光秀と家康の関係は良好であったともいわれており、それが「本能寺の変」における「光秀・家康共謀説」へとつながっていったことも考えられます。
いかがでしたでしょうか。本稿で取り上げた説はいずれも決定的な証拠があるわけではなく、やはり「本能寺の変」の真相は不明と言わざるを得ません。
だからこそ新たな史料や研究成果が現れるたびに、活発な議論が行われるのです。今後、「本能寺の変」の原因を決定づける資料が発見されることが待たれます。
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磯田道史著 『日本史を暴く』中央公論新社刊
明智憲三郎 『本能寺の変431年目の真実』河出文庫
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