『豊臣兄弟!』「秀吉、お前だけは許さない!」本能寺の変で運命が暗転した信長三男・織田信孝の壮絶な最期
大河ドラマ「豊臣兄弟!」次回放送で描かれる本能寺の変によって、運命を大きく狂わされたのは、明智光秀や豊臣秀吉だけではありません。
織田信長の三男・織田信孝(結木滉星)もまた、この大事件を境に人生が一変した人物のひとりです。
信長の子として将来を期待され、四国討伐軍の総司令官にも任じられていた信孝。しかし、父・信長が本能寺で横死すると、その立場は一気に不安定なものとなっていきます。
『豊臣兄弟!』でも、今後描かれる可能性が高い信孝の悲劇。今回は予習も兼ねて、信長の息子でありながら秀吉に追い詰められていった織田信孝の生涯をたどってみましょう。
恨みの念を抱いて自刃した信孝
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」
これは、織田信長の三男・信孝の辞世の短歌とされるものです。
信孝は、1583年(天正11)5月7日、尾張国知多郡(現・愛知県知多郡美浜町)にある大御堂寺(おおみどうじ/通称:野間大坊)の一院・安養院の一室で自刃して果てます。26歳という若さでした。
この辞世に書かれた「筑前」とは豊臣秀吉のことで、「むくい」とは報い。すなわち、秀吉に対して非情な恨みを残して死んでいったことになります。
信孝は、この辞世を書いた直後に切腹。それも、腹をかき切って腸をつかみ出すと,床の間にかかっていた墨梅の掛け軸に投げつけたとされます。いわゆる、無念腹をきったのです。
その血痕は、いまなお掛け軸に残っていて、そこに描かれた梅の花は、不思議なことに四季折々に色を変えるとも言い伝えられています。
ちなみに、この血染めの掛け軸と自刃した際に使った短刀、そして自刃した部屋は非公開ながら、いまも大御堂寺に残されているそうです。
19回「過去からの刺客」で初登場『豊臣兄弟!』第19回「過去からの刺客」の冒頭シーン、いつものように二人の小姓を引き連れた織田信長(演:小栗旬)がうやうやしく上座に登場。この時が、織田信孝の初登場でした。
そこに居並ぶのが、織田信忠、信孝、信澄(演:緒形敦)の一門衆を筆頭に、柴田勝家(演:山口馬木也)、佐久間信盛(演:菅原大吉)、丹羽長秀(演:池田鉄洋)などの織田家の宿老たち。もちろん、秀吉も秀長(演:仲野太賀)も控えていました。
ちなみに信澄とは、信長が謀殺した実弟の信勝の子で、勝家のもとで養育されていました。第26回放送「信長を笑わせろ!」放送後には、本能寺の変の黒幕では?と、視聴者の間で話題になっています。信忠とは従兄弟の関係にあり、ほぼ同年代とされます。
浅井氏旧臣・磯野員昌の養嗣子となり、員昌が信長の怒りを買い出奔したのちはその旧領を引継ぎ、北近江高島郡を領有するとともに大溝城主を務めていた人物です。大溝城は明智光秀(演:小栗旬)が縄張りをした城郭で、そうした縁もあってか光秀の娘を妻としていました。
このシーン、信長は信忠に家督を譲ること、岐阜城と尾張・美濃の支配権も任せること告げます。驚きの表情を浮かべる信忠に対し、信孝、信澄は祝辞の言葉を述べました。
秀吉だけは絶対に許すことはできない!さて、信孝初登場の回想はここまでとし、本題の信孝が自尽に至る経緯に戻りましょう。
今回の『豊臣兄弟!』で描かれたのは、1577年(天正5年)のことと推測されます。ここから1582年(天正10年)までの5年間は、信孝の人生は順風満帆でした。
しかし、繰り返しになりますが、父信長が横死した本能寺の変が彼の人生を一変させます。
本能寺の変が起きた時、信孝は大坂の住吉浜にいました。四国の長宗我部元親 (演:磯部寛之)を討つための四国討伐軍の総司令官に任命されていたのです。
副将として、丹羽長秀と織田信澄がいましたが、信長横死という混乱の中で信孝と長秀は光秀との共謀を疑い信澄を殺害してしまいます。
【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期そして四国討伐軍は、中国から急遽引き返してきた秀吉軍に吸収されました。山崎の合戦では信長遺児という立場上、信孝が総大将を務めますが、結局は光秀討伐の功を秀吉に奪われてしまいます。
とはいえ、清州会議で秀吉に主導権を奪われながらも、美濃国一国と岐阜城を与えられることになり、秀吉が織田家の後継者と定めた三法師(信忠の嫡男)の後見役を務めることになりました。
そうしたなか、秀吉は丹羽長秀や池田恒興(演:堀井新太)ら織田重臣たちを取り込み、信長から天下人を継いだかのような行動を取り始めます。
この動きを見ていた信孝は、反秀吉勢力の筆頭である勝家と結びますが、秀吉に岐阜城を包囲され降伏してしまいます。そこからの信孝の人生は、凋落の一途をたどるのです。
そして、1583年(天正11年)、勝家が2万の兵を率いて北近江に進出し、木之本で秀吉軍と対峙すると、再起を目指し挙兵、岐阜城を攻略しました。
秀吉(池松壮亮)と争い怒り心頭の柴田勝家(山口馬木也)(NHK『豊臣兄弟!』公式サイトより)
だがこの賤ケ岳の戦いで勝家が敗れ、居城の北の庄で自害すると、もはや信孝には秀吉に対抗する力は残っていませんでした。
岐阜城を開城して降伏した信孝は、長良川を下って尾張国知多郡に奔り、大御堂寺に退きます。そしてここで、無念を死と遂げるのです。一説には、兄の信雄が死を命じたとも言われています。
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」
この信孝の辞世の短歌の出典は、江戸時代以降の軍記物のため、信憑性が薄いという説もあります
しかし、農民という身分から大身の大名へ取り立ててくれた恩人である織田家をないがしろにする秀吉に対して、「こいつだけは許すことはできない!」と、死の直前まで怒りが収まらなかったのは間違いないでしょう。
『天正記』に「将軍の息男にして、智勇人に超えたり」と評された信孝。そんな彼だからこそ、無念の思いは大きかったともいえるでしょう。
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柴裕之編 『戦国武将列伝 織田編』 戎光詳出版
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