朝ドラ「風、薫る」チュウの意外すぎる史実!新宿中村屋創業者・相馬愛蔵とりんのモデル・大関和を結んだ生涯の絆

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朝ドラ「風、薫る」チュウの意外すぎる史実!新宿中村屋創業者・相馬愛蔵とりんのモデル・大関和を結んだ生涯の絆

NHK朝ドラ「風、薫る」。

帝都医科大附属病院の看護婦として働くヒロインたちは、「病院」という舞台で何度も出会いと別れを繰り返しています。

そんな中、「患者」として出会い付き合いが続いている人物が「チュウ」こと丸山忠蔵(若林時英)です。

退院後は、ヒロインの一ノ瀬りん(見上愛)や大家直美(上坂樹里)のご近所さんとして、よく登場するチュウ。

実はこの若者、『新宿中村屋』の創業者・相馬愛蔵がモデルとされています。そして、実際にりんのモデル・大関和とは、長い友情の絆で結ばれた間柄でした。

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さらに、シマケンこと島田健次郎(佐野昌哉)のモデルの一人かも?といわれる社会運動家・作家の木下尚江とも深い関わり合いがありました。

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愛蔵は、日本初のクリームパンを作り、インド式式カレーライスを販売し、関東大震災では難民となった人々を救い……ほか、商人という枠を超えさまざまな活躍をした人でした。

そんな、相馬愛蔵と大関和との絆を、ドラマのストーリー・原案小説・史実とともにご紹介しましょう。

「チュウ」こと丸山忠蔵。(NHK「風、薫る」公式「X」より)

※現在は「看護師」という名称ですが、この記事では当時の名称に合わせ「看護婦」と表記しています。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。

「臭い塗り薬」を嫌がらない大関和に感謝した愛蔵

チュウのモデル・相馬愛蔵は明治3年(1870)長野県・安曇野の農家に生まれ、17歳の頃、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学しました。

原案伝記小説によると、入学のタイミングで帝国大学医科大学附属第一病院(現在の東大病院)に入院し、看護婦取締として働くりんのモデル・大関和の看護を受けます。

愛蔵は寮で、先輩から疥癬をうつされてしまったのです。疥癬はヒゼンダニが皮膚に寄生して発症する病気で、“夜も眠れないほどの強い痒み”を伴う病気です。

明治時代は「硫黄を主成分とした軟膏」を塗るしか治療法はありませんでした。

硫黄臭のする薬を皮膚一面に塗らなければいけないので、看病婦は嫌がっていたそうなのですが、大関和だけは率先して薬塗りを行い、1日3回に数を増やしたそう。

愛蔵はそれを申し訳なく思い「すみません」と謝ってばかりでしたが、和は「父は黒羽藩の硫黄製造掛でいつも硫黄の匂いがしていたので嫌ではないです。むしろ懐かしい」と献身的に手当てをしました。おかげで愛蔵は一週間ほどで退院できたそうです。

このとき愛蔵は和に感謝し「いつか必ず恩に報いる」と誓ったのでした。

「風、薫る」のドラマの中では、直美がチュウを担当。チュウは「学用患者」(※)のせいか医者はろくに経過観察もせず、処方される薬は少なく、シーツの交換もほぼされていない状態でした。

直美は、環境を清潔に整え、医師に薬の量を増やさせ、つい背中を掻くチュウを厳しく叱りつけていたおかげで治癒も進みました。

※学用患者:無料で治療、入院を認める代わりに医学の研究や学生の教育のために協力する患者のこと

丸山忠蔵と一ノ瀬りん。(NHK「風、薫る」公式「X」より)

妻のため、東京永住と商売を始めることを決意

退院した相馬愛蔵は、学校卒業後に北海道に渡り養蚕学を学び、故郷の安曇郡白金村に戻り蚕種製造を始めます。さらに、禁酒会を作ったり村に芸妓を置く計画に反対し廃娼運動も行いました。

愛蔵は、孤児院基金募集で仙台に出向いたときに、星良(りょう)と出会い、明治31年(1898)28歳で結婚します。

そして3年後の明治34年(1901)、相馬愛蔵は東大赤門前のパン屋・本郷中村屋を買い取り、商売人としての人生をスタートしたのでした。

農家出身で青年期は一書生だった愛蔵はなぜ商人になったのか?

これについては著書『一商人として ―所信と体験―』の中で、

▪️「勤め」が嫌いで独立した人間でいたかった
▪️田舎暮らしが合わず体調を崩した妻のため東京永住を決めた
▪️東京で生活するには商売を始めたほうがいいと思った

と理由を挙げています。

明治23年頃(1890)の黒光

「御用商人を嫌い癒着せず欲張らない」が愛蔵の信念

「東京で商売をしよう!」と決めたものの、何をするか迷った愛蔵は「新しく誰が行っても同じで、素人玄人の開きの少ないものがいい」と考えます。

目をつけたのは『パン』でした。当時、パンは徐々にインテリ層の生活に溶け込みつつあったので、将来的に一般家庭の食事として馴染むか見極めるため、愛蔵は1日2度パン食に切り替え三ヶ月試します。

結果「パン食はいける!」と判断、「パン屋を譲り受けたい」と広告を出したところ、すぐに申し込みがあり、その中に東大赤門前のパン屋・本郷中村屋があったそうです。

そこで、商品、製造道具、職人などすべて居抜きで買取り、パン屋をスタートしたのでした。

買い取る前の中村屋が店を手離す理由が、先代の主人が米相場に手をつけて享楽的な生活をしたためと聞いた愛蔵は、
・目鼻のつくまで衣服は新調しない
・食事は主人も店員女中たちも同じもの
・米相場や株には手を出さない
・原料の仕入れは現金取引

などと決め質素倹約に勤め商売に励んだ結果、「書生あがりのパン屋」は日に日に売り上げを伸ばしていきました。

知名度が上がっても、明治維新以来、政府と切っても切れない因縁の仲にある『御用商人』を嫌った愛蔵。「店の経費を払い、職人・雇人に世間並みの待遇さえ出来れば、それ以上の利益はなくていい」という信念の上で経営を続けます。

そして、開業3年目で新作クリームパンとクリームワッフルを発売。ある日初めてシュークリームを食べてその美味しさに感動し、クリームをあんぱんの餡の代わりにしたらより栄養価が高くなり風味も美味しくなると思ったからだそうです。

クリームパン(photo-ac)

「お世辞を排し良い商品を廉価で販売する」を貫く

ドラマでは、チュウは退院後に直美が住んでいた長屋を紹介され引っ越し、さらに皆が愛用する団子屋『田之上屋』に務めます。

そして、団子屋の主人が病気を機に引退し店を引き継ぎました。もともと甘いもの好きだったチュウは「喜んでもらえるお菓子をひらめいていた」様子でした。クリームパンは、チュウの新作としてドラマ内に登場するのでしょうか。

史実での愛蔵の機転や発想力を物語るエピソードがあります。

商品の売れ行きも上々の中、あるとき赤飯の大量発注後にキャンセルされてしまいます。そこで、「一石五斗の水に浸したもち米」の始末に困った愛蔵は、もち米を潰して桜色をつけて餡を入れ桜の葉に包み『新菓葉桜餅』を販売したところ大ヒットしたそうです。

明治40年(1970)には店舗を新宿に移転。愛蔵は、パンのほかにも和菓子やラスクなどを売り出し、大正に入ると洋菓子の販売も始めます。

大正4年には、インドの亡命志士ラス・ビハリ・ボースをかくまい、長女が結婚した縁で昭和2年には喫茶部を開設し『純印度式カリー・ライス』を販売し大評判となりました。

さらに、店を拡大し店員のマナーやモラル向上のために研成学院を設立。生涯、商人として「無意味なお世辞を排し良い商品を廉価で販売する」を貫き通したそうです。

ラス・ビハリ・ボース、ボース俊子(相馬俊子)夫妻大正7年(1918)頃 public domain

和と女性関係に問題ある木下尚江との結婚を阻止

さて、史実でも明治23年11月に、りんのモデル・大関和は帝国大学医科大学附属第一病院を退職し、越後高田の女学校寄宿舎の舎監として赴任します。

退職の理由は、「看護師になりたいと勉強に励む看病婦」たちの待遇改善を病院側が受け入れず、和が建議申し立てを行い男性医師らの反発を招いたこと。

優秀ながら「目の上のたんこぶ」だった和を解雇に追いんだ病院側ですが、案の定、和の退職後は新聞に「第一病院の看護の質が低くなった」と投書が載り、慌てて改善をはかったそうです。

高田女学校に転職した和のところに、ある日愛蔵が訪ねてきます。そして、和は社会運動家・作家の木下尚江と出会いました。

木下尚江は「風、薫る」のドラマに登場するシマケンこと島田健次郎(佐野昌哉)のモデルの一人かも?とも推測される人物。

尚江と愛蔵は、同じ旧制松本中学校出身で、東京専門学校の先輩後輩関係だったのです。

りんに好意を寄せる作家志望のシマケン(NHK「風、薫る」公式サイトより)

愛蔵から和の話を聞かされて会いたがっていた尚江

尚江は愛蔵から「大関和は信頼できる婦人」だと聞かされていたので、和と会ってみたかったそうです。

その後、尚江と和は手紙のやりとりをした程度でした。けれども、愛蔵から尚江が恐喝取材罪で逮捕・収監されたと聞き和は差し入れに通います。二人は親しくなり、尚江は出獄間近に和に結婚を申し込みました。

尚江は愛蔵にそれを報告をしますが、愛蔵は大反対します。

「和が社会的な地位を築いているのに対し、尚江は11歳年下で社会的に独り立ちしていない」こと、「尚江は廃娼運動をしているのに遊郭通いをして女郎を身請け。その後何の責任も果たさなかった」ことが理由でした。

女性遍歴に問題ありな尚江を恩人の和に紹介してしまった愛蔵は後悔し、自分が調査して判明した尚江の女性関係を包み隠さずに書き「到底賛成できない」と真摯な手紙を和に出します。

和はその誠実な手紙に心を打たれ尚江への気持ちは醒め、愛蔵に心からの感謝の手紙を書いたそうです。

和は、一時的な結婚への夢を断ち切ると、東京看護婦会の仕事の傍ら『看護派出心得』を出版、後進を育てつつ派出看護を行ったり、貧民窟の衛生管理に尽力し伝染病の発生率を下げたり救済活動を行なったりなど、目覚ましい活躍をしていきました。

もし社会的な運動で飛び回る尚江と結婚したら、和は看護の仕事に没頭できなかったかも。また結婚後に夫の遊郭遊びの件を知ったら悩んだことでしょう。愛蔵の判断は正しかったと思います。

和も愛蔵への恩は忘れませんでした。

明治34年(1901)に愛蔵が「中村屋」を始めたころ、和は相馬夫妻の激励に駆けつけ、帝大病院内でパンが売れるように取り計らったとか。

32歳だった愛蔵は、変わらない和の思いやりや愛情深さにさらに深い感謝を寄せたといいます。

相馬愛蔵(明治3年-昭和29年)public domain

「多くを得た分だけ多くを与えた人間愛に溢れた人」

大正12年(1923)9月1日、関東大震災が襲ったとき、震災に便乗してすべての食料品が軒並み値上がりしていきました。

被災を免れた中村屋は、パンや菓子を定価より安く販売。社員一同毎晩徹夜でパンなどの製造を続けました。この姿勢に感動した人々は多く、震災後の売り上げは大きく伸びたそうです。

さらに1927年昭和金融恐慌時、銀行に取り付け騒ぎが起き、取引先の安田銀行に預金を確保しようとする人の列が出来たそう。

愛蔵は部下に金庫の有り金を全て持たせて駆け付けさせて、「中村屋ですがお預け!」と大声を出して群衆のパニックを収めたそうです。

『多くを得た分だけ、多くを与えた人間愛に溢れた人』といわれた相馬愛蔵。

現代にもこのような商売人がいて欲しいと思うような魅力的な人物ですね。

ドラマでは、長屋の人々に愛されているチュウ。りんの娘・環の面倒も見ているようです。人当たりもよく親切なチュウは、確かに新時代を迎えた明治の商売人に向いていそうな感じ。

今後、相馬愛蔵のような偉大な商売人になる過程や、長く続くりんとの絆はどう描かれていくのか楽しみです。

参考:

田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』
亀山美知子『大風のように生きて: 日本最初の看護婦大関和物語』
相馬愛蔵『一商人として ―所信と体験―』

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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