【豊臣兄弟!】秀吉に“見捨てられた養子”池田長吉とは?養子の座を追われるも関ヶ原で返り咲いた波乱の生涯
羽柴秀吉(池松壮亮)が男児に恵まれなかったのはよく知られるところで、晩年に拾丸(後の豊臣秀頼)が生まれるまで、多くの養子をとっていました。
今回はそんな一人・羽柴藤三郎長吉(とうざぶろう ながよし)を紹介。彼は一体何者で、どんな生涯をたどったのでしょうか。
秀吉の都合に振り回される
羽柴長吉は元亀元年(1570年)、池田恒興(堀井新太)の三男として誕生しました。
12歳となった天正9年(1581年)に秀吉の養子となり、元服して藤三郎長吉と改名します。
藤三郎とは藤吉郎(秀吉)と勝三郎(恒興)を合わせた通称で、長吉の諱は織田信長(小栗旬)と秀吉から一字ずつとったものでした。
池田恒興は信長の乳兄弟として織田一族との関係が深く、秀吉としては高い利用価値があります。
秀吉が播磨国を与えられ、恒興が隣接する摂津国を与えられていたのをキッカケに、養子縁組を持ちかけたのでしょう。
しかし天正12年(1584年)に池田恒興とその嫡男である池田元助(もとすけ)が小牧・長久手の戦いで揃って討死したことから、長吉の利用価値は失墜してしまいました。
翌天正13年(1585年)に長吉は従五位下・備中守に叙せられ、一万石を与えられています。
いっぽう秀吉の養子となっていた宇喜多秀家(直家の子)や結城秀康(徳川家康の子)らは侍従≒公卿となっていました。
こうした格差から、当時すでに長吉は秀吉との養子縁組を解消され、池田家に戻っていたものと考えられます。
そして天正15年(1587年)に嫡男の池田長幸(ながゆき。備中守)が誕生していますが、その生母は伊木忠次女(いぎ ただつぐ娘)でした。
伊木忠次は池田家の家老であり、もし長吉が秀吉の養子であり続けていたなら、もっと家格の高い女性を娶(めあ)せたことでしょう。
そして長吉は慶長19年(1614年)9月24日に45歳で生涯を終えたのでした。
文武両道の名将だった
このように秀吉の都合で振り回された生涯でしたが、長吉自身もただ翻弄されるばかりではなく、戦国乱世をたくましく生き抜いたようです。
長吉は実父と実兄を喪った小牧・長久手の戦いで初陣を飾ったのをはじめ、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などに参陣しました。
さらに文禄元年(1592年)の第一次朝鮮征伐(文禄の役)において、秀吉の警護や舟奉行として功績を上げます。
また京都方広寺の大仏造営や伏見城の普請にも尽力し、実務方面でも才能を発揮しました。
慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣秀頼が跡を継ぐと徳川家康(松下洸平)に接近します。
そして慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起きると、家康率いる東軍に加勢して次兄の池田輝政(てるまさ)と共に武功を立てました。
岐阜城攻め・関ヶ原本戦・近江水口岡山城攻めと歴戦し、論功行賞において鳥取城と六万石を与えられます。
この時点で正式に羽柴から池田の苗字に戻しており、豊臣政権から徳川政権に軸足を移したのでしょう。
慶長7年(1602年)に鳥取城へ入った長吉は、関ヶ原の戦いで焼き払われていた鳥取城と城下の再建復興に着手しました。
再建には4〜5年の歳月を要しましたが、これまでに建築分野で培われた才覚をもって、見事に成し遂げたそうです。家康は、まさに適材適所で長吉を鳥取に配したのかもしれませんね。
その後も慶長8年(1603年)に関ヶ原の戦いで焼け落ちた伏見城の再建、また慶長11年(1606年)には江戸城の石垣普請に参加しています。
さらに慶長15年(1610年)の丹波亀山城でも普請に参加、まさに文武両道において活躍した人生でした。
終わりに今回は秀吉の養子となった池田長吉の生涯をたどってきました。
他の養子たちに比べてあまり知名度が高くない印象ですが、こうしてみるとかなり活躍したことがわかります。
果たして長吉は大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場するのでしょうか。登場するなら誰がキャスティングされるかも注目ですね。
※参考文献:
菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』角川書店、2025年11月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan