朝ドラ「風、薫る」りんの運命の相手になる?横沢公輔(井上祐貴)のモデルとされる木下尚江の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。
第16週で初登場した新潟の新聞記者・横沢公輔(井上祐貴)もその1人です。何かと主人公・一ノ瀬りんのことを気に掛ける、強い信念を持った青年として描かれます。
横沢公輔のモデル、あるいは人物造形のモチーフの一人と考えられるのが、明治から昭和前期にかけて活動した社会運動家、ジャーナリスト、作家の木下尚江(きのした・なおえ)です。
木下尚江は、島田健次郎(佐野晶哉)のモデルでは?ともされている人物です。
木下尚江は、旧松本藩の下級武士の家に生まれ、若い頃から法律、弁論、新聞執筆の力を身につけました。
しかし、尚江が生まれたのは明治維新直後です。武士を中心とした社会は崩れ、日本は近代国家へ向かって急速に姿を変えていました。
尚江は持ち前の文章力、弁論力、法律知識を活かし、普通選挙、廃娼、足尾銅山鉱毒事件、非戦といった問題に取り組みます。
しかし、その人生は決して順風満帆ではありませんでした。入獄を経験し、同志との別れや母の死に直面すると、それまでの社会運動から距離を置き、自らの内面を見つめる道へ入っていきます。
木下尚江の生涯について見ていきましょう。
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横沢公輔。モデルとなったのが、弁護士の木下尚江である。公式Xより。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
旧松本藩の下級武士の家に生まれる明治2(1869)年9月8日、木下尚江は信濃国松本天白町で生を受けました。父は旧松本藩の足軽だった木下秀勝、母はくみとされます。
木下家は武士の家でしたが、その地位は低く,そのため禄もわずかであり,決して裕福な家ではありませんでした。
尚江が生まれたのは、版籍奉還が行われた年です。旧武士である士族の人員整理も現実味を帯び始めてきた時代でした。
明治4(1871)年には,廃藩置県が断行。藩という仕組みそのものが消えていきました。尚江は、父祖が属してきた武士の秩序が崩れていくなかで成長したのです。
しかも幼い尚江は病弱だったといいます。
外で活発に遊ぶよりも、家の中で絵本を読んだり、大人から世間話や宗教に関する話を聞いたりして過ごしました。
一方で、祖母に連れられて寺院で開かれる演説会にも足を運びました。そこで自由民権運動に触れた経験は、のちに政治や社会問題へ向かう原点の一つになったと考えられます。
明治9(1876)年、尚江は開智学校に入学。開智学校は、明治初期の近代教育を象徴する学校で、旧城下町の松本でも新しい時代に対応した教育が始まっていました。
明治14(1881)年には松本中学校へ進学。この学校で尚江の心を大きく動かしたのが、イギリスのピューリタン革命を指導したオリバー・クロムウェルでした。
クロムウェルらは国王チャールズ1世を裁判にかけた人物です。国王であっても法の裁きを受けるという歴史は、旧武士社会の権威が崩れたばかりの日本で育つ尚江に、強烈な印象を与えました。
尚江は自伝的著作『懺悔』で、心を奪われた少年時代を振り返っています。学校では「クロムウェルの木下」と呼ばれるほどだったそうです。
東京で法律を学び、新聞記者となる
明治19(1886)年、尚江は法律を学ぶために上京しました。
尚江が知りたかったのは、単に裁判や契約に使われる法律ではありません。
国王のような最高権力者であっても裁くことのできる法律とは何か。権力と法はどのような関係にあるのか。その答えを求めていたのです。
やがて尚江は、東京専門学校(現在の早稲田大学)の邦語法律科で学び始めました。
東京専門学校では法律だけでなく、政治や議会制度についても学ぶことができました。尚江は学生が議員や政府委員に扮して討論する「擬国会」にも関わり、演説と議論の力を磨いていきます。
明治21(1888)年、尚江は東京専門学校邦語法律科を卒業。松本に帰郷して、同地の『信陽日報』の記者となりました。
当時の新聞は、単に出来事を伝える媒体ではありません。政治に対する意見を示し、地域の人々を動かす力を持っていました。
尚江は長野県庁の移転問題などを積極的に取り上げ、二十歳前後の若さで地方政治の議論に加わります。その文章には勢いがあり、尚江の加入によって紙面に活気が生まれたと評価されました。
しかし、明治23(1890)年には信陽日報は廃刊。尚江にとって大きな挫折となります。
新聞を失った尚江は、深い失意のなかでキリスト教に傾倒。やがて禁酒運動や廃娼運動に参加します。
廃娼運動とは、公娼制度を廃止し、売春を強いられていた女性たちを救おうとする運動です。当時、公娼制度は行政によって認められ、女性の人権よりも社会秩序や税収が優先されることがありました。
尚江は、法律上認められている制度であっても、人間の尊厳を傷つけるならば改めなければならないと考えました。
この姿勢には、キリスト教の人間観と、少年時代から抱いていた権力への疑問が結びついていたと考えられます。
新潟県高田で大関和と運命的な出会い
明治24(1891)年、尚江は禁酒・廃娼運動のため、新潟県高田を訪れました。
この高田で出会ったのが、朝ドラ「風、薫る」の主人公・一ノ瀬りんのモチーフとなった大関和です。
大関和は高田女学校で舎監兼伝道師を務めたのち、知命堂病院の看護長として看護と看護教育に携わりました。尚江と大関は、キリスト教信仰や女性を取り巻く社会問題への関心を通じて接近したと考えられます。
後年の研究や回想では、二人が結婚を考えるほど親しい関係にあったとされています。
朝ドラの横沢公輔が新潟の新聞記者としてりんを気に掛ける設定には、こうした尚江と大関和の史実が、何らかの形で反映されている可能性があります。
明治26(1893)年、尚江は代言人試験に合格しました。
代言人は、現在の弁護士にあたる職業です。尚江は松本で法律事務所を開き、人々の争いや訴訟に向き合いました。
同じ頃、『信府日報』の主筆に着任します。
尚江にとって法律と新聞は、別々の仕事ではありませんでした。法律によって一人ひとりを救う一方、新聞によって制度や社会そのものを変えようとしていたのです。
同年、尚江は正式にキリスト教の洗礼を受けました。
明治30(1897)年、尚江は中村太八郎らとともに、松本で普通選挙運動を始めます。
当時の衆議院議員選挙では、一定額以上の税金を納めた成人男性にしか選挙権がありませんでした。貧しい男性や女性は、国民でありながら政治に参加できません。
尚江らは松本普通選挙期成同盟会を結成し、納税額に左右されない選挙権を求めました。松本で始まったこの運動は、日本における普通選挙運動の先駆けと評価されています。
しかし、同じ明治30(1897)年、尚江は県会議員選挙をめぐる疑獄事件の容疑で逮捕。収監されてしまいました。普通選挙を求めた行為そのものが罪に問われたわけではありませんが、政治と選挙をめぐる事件に巻き込まれたと考えられます。
このとき、尚江の心の支えとなったのが大関和でした。大関は収監中の尚江に差し入れを行っています。
明治31(1898)年、尚江は出獄。後に無罪となったとされます。
鉄格子の内側で過ごした時間は、尚江にとって人生の大きな転機となりました。後年、自身の獄中生活を自分の人生を再生させた経験として振り返っています。
東京で社会の不正を追及する新聞記者となる
明治32(1899)年、再び上京した尚江は『毎日新聞』に入社して新聞記者として新たな歩みを始めています。
ここで尚江は、廃娼問題、政官界の汚職、普通選挙、労働者問題などを取り上げます。
なかでも重要だったのが、足尾銅山鉱毒事件です。
足尾銅山から流出した鉱毒は、渡良瀬川流域の農地や生活を破壊していました。尚江は田中正造らと関わりながら、被害民の側に立って記事を書きました。
明治37(1904)年、日露戦争が勃発。日本国内では開戦を支持する世論が高まり、新聞も戦勝を求める論調に傾いていきます。
そのなかで尚江は、戦争によって命を奪われるのは、権力者ではなく一般の兵士や民衆であると訴えました。
尚江は毎日新聞において小説『火の柱』を連載。同作は、政治、軍国主義、宗教、貧困などの問題を小説の形で描いた作品です。尚江は論説だけでなく、物語によっても戦争の矛盾を伝えようとしました。
続いて『良人の自白』を発表し、社会制度と人間の内面の葛藤を描いています。
明治38(1905)年には、石川三四郎らと雑誌『新紀元』を発行。しかし政府の監視は強まり、平民社も解散へ追い込まれます。
明治43(1910)年、尚江は岡田虎二郎の岡田式静坐法に入門。岡田式静坐法は、姿勢と呼吸を整えて静かに坐り、心身の安定を求める修養法です。
尚江は静坐によって自分の心を見つめ直し、宗教や人間の生き方について考えるようになりました。
やがて仏教思想にも関心を深め、『日蓮論』『法然と親鸞』などを著述。政治運動の表舞台からは退きましたが、著述と思索を通じた活動は続いていました。
分泌活動の一方で、足尾銅山鉱毒事件に取り組んだ田中正造との関係は続きました。
大正2(1913)年、田中正造が病床に伏すと、尚江はその最期に立ち会っています。
のちに尚江が著した『臨終の田中正造』には、権力や財産を求めず、被害民のために生涯を捧げた田中への敬意がにじんでいます。
尚江の著作のなかには発売禁止となったものもあります。それでも尚江は、弱い立場に置かれた人々を見つめ、民主主義と非暴力の大切さを書き残しました。
昭和12(1937)年11月5日、尚江は世を去りました。享年68。
木下尚江は、政治家として高い官職に就いた人物ではありません。
また、公娼制度、鉱毒被害、労働問題、戦争といった、当時の国家や社会が目を背けがちだった問題を、新聞、演説、小説によって世に問い続けた生涯でした。
その歩みは、武士の時代から市民の時代へ向かう近代日本に、言葉と良心によって人間の尊厳を守る橋を架けた歩みだったと言えるでしょう。
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