朝ドラ「風、薫る」会津戦争で姉を失った悲劇…女学校の校長・望月勘治(関智一)のモデル・中野豊記の生涯
朝ドラ「風、薫る」には魅力的な人物が数多く登場します。一ノ瀬りん(見上愛)が赴任した「高越女学校」の校長である望月勘治もその1人です。
モデルとなった可能性があるのが、幕末から明治時代にかけて活躍した教育者・中野豊記(なかの・とよき)という人物でした。
中野豊記は、会津藩士の家に生まれ、武家の教育を受けながら成長しました。しかし、戊辰戦争によって世情は一変します。故郷の会津は戦場となり、姉の中野竹子は戦いの中で命を落としました。
敗者となった会津藩の人々が苦しい生活を送るなか、中野豊記は新しい学問を身につけ、教育の道を選びます。
やがて教師、教科書編纂者、新潟県視学として活躍し、明治33(1900)年には中頸城郡立高田高等女学校の初代校長となりました。
しかし、その人生は決して順風満帆ではありません。若くして家族と故郷が戦争に巻き込まれ、教育者として地位を築いた後も、学校を離れて横浜で生涯を閉じることとなります。
中野豊記は何を思い、何を考え、どのような時代を生きたのでしょうか。
中野豊記の生涯について見ていきましょう。
女学校の校長・望月勘治。モデルとなったのが旧会津藩士の中野豊記である。公式Xより。
※本記事では登場人物のモデルとされる実在人物を紹介していますが、ドラマ上の人物設定や物語展開は創作を含むため、実在人物の生涯・経歴とは異なる場合があります。
江戸の会津藩士の家に生まれる嘉永4(1851)年10月、中野豊記は江戸で会津藩士・中野平内忠順の子として生を受けました。母は孝子と伝わります。
姉はのちに会津戦争で薙刀を手に戦った中野竹子です。
父の平内は、江戸詰めの会津藩士として勤務していました。和歌や書道にも通じ、持明院流の書を教えるほどの教養を持っていたと伝わります。
そのため中野家は、武芸だけでなく、学問や書にも親しむ武家でした。豊記も幼い頃から、武家の子として必要な読み書きや漢学を学んだと考えられます。
ただし、豊記の幼少期について詳しく記した記録は多くありません。藩校日新館で学んだとされますが、具体的な在学期間や成績については詳しくは不明です。
自身の力を磨きつつ、将来を嘱望されたことは間違いありません。しかし程なくして時代は大きな転換点を迎えます。
慶応4(1868)年、旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争が勃発。会津藩は旧幕府側の中心勢力と見なされ、新政府軍の攻撃を受けます。
豊記は父・平内とともに会津若松城へ入り、籠城戦に加わったと伝わります。
一方、姉の竹子は城外で女性たちと行動し、薙刀を手に新政府軍と戦いますが銃撃を受けて戦死。後世「娘子隊」と呼ばれる女性たちの戦いのなかでも、竹子の死は会津戦争を象徴する出来事となりました。
同年9月、やがて会津若松城は開城。会津藩士たちは武器を取り上げられ、各地に身柄をを預けられました。
このとき、豊記も越後高田藩の預かりとなったとされています。敗者として高田へ送られた経験は、豊記の人生に大きな影響を与えることになるのです。
豊記の姉・中野竹子。文武に通じた女傑であり、豊記にも影響を与えた。
近代教育によって身を立て、後進を育成する道を選ぶ明治維新後、豊記は自身の力で未来を切り開いていくこととなります。
豊記は、新沼間守一の私塾で英語を学習。沼間は幕臣出身で、明治時代には新聞人や政治家として活動した人物です。
やがて豊記は、官立新潟師範学校(新潟大学の前身)に進学する道を選びました。
師範学校とは、小学校の教員を養成するために設けられた学校です。全国的な学校制度が整えられ始めたばかりの当時、近代的な教授法を学んだ教員は貴重な存在でした。
豊記は同校の第一期生となったとされ、卒業後は新潟県の教育に携わります。
戊辰戦争から数年しか経過していない時期に、かつて敵味方に分かれた藩の出身者たちが同じ学校で教育を学んでいました。
この経験は、豊記の進路に大きな意味を持つこととなります。武力によって国を動かす時代から、教育によって国民を育てる時代へと、日本が変わり始めていました。
明治5(1872)年、明治政府は「学制」を公布。全国に学校を設けようとしますが、学校の建物だけでなく、教員も教科書も不足していました。
このとき豊記は、教壇に立つだけでなく、子どもたちが学ぶための教材づくりにも力を注ぎます。
明治13(1880)年頃には、新潟師範学校教員の今井退蔵とともに『小学用算術書』を編纂。同書は、小学校で算術を教えるために作られた教科書です。
明治14(1881)年には『小学日本暗射地図附録』を編集。地名などを書き込まず、地形や輪郭を見ながら地理を覚えるための教材です。同書の校閲には、のちに国語辞典『言海』を編纂する大槻文彦が関わりました。
さらに明治17(1884)年には、中沢中とともに『小学作法書』を編集しています。
算術、地理、作法と、豊記が関わった分野は一つではありません。新しい学校制度のもとで、子どもたちに何を、どのように教えるのかを形にしていったのです。
新潟県視学から高田高等女学校校長へ
やがて豊記は、新潟県視学を務めるようになりました。
視学とは、学校を巡回し、授業や学校運営を調査・指導する教育行政の職です。現在の教育委員会の指導主事や学校監督官に近い役割でした。
当時の新潟県には、都市部だけでなく、山間部や豪雪地域にも学校が置かれていました。しかし、教員の力量や教材、校舎の状態には大きな差があったのです。
視学には、教育内容だけでなく、地域の事情を理解し、学校と行政をつなぐ能力が求められました。
教師として授業を知り、教科書編纂にも携わった豊記は、学校を指導する立場にふさわしい経験を積んでいたのでしょう。
豊記は、幕末の武士から近代国家の教育行政官へと、自らの役割を変えていったのです。
明治33(1900)年5月7日、中頸城郡立高田高等女学校が開校。初代校長に選ばれたのが、当時、新潟県視学を務めていた豊記でした。
学校は現在の新潟県上越市にあった寺町の善導寺を仮校舎として出発。尋常小学校を卒業した女子に中等教育を行いました。
当時、女子が中等教育を受けられる機会はまだ限られていました。女学校では、国語、歴史、地理、算術などに加え、裁縫や家事に関する教育も行われました(このとき、舎監として赴任したのが一ノ瀬りんのモデル・大関和です)。
当時の教育の目的には近代以降の価値観である「良妻賢母」の育成が掲げられました。女性が妻や母として家庭を支えることを重視する考え方です。
朝ドラの望月勘治が「女性の幸せは良縁に恵まれること」と考えている点には、この時代の女子教育観が反映されていると考えられます。
豊記は、明治39(1906)年頃まで、初代校長を務めたとされています。
しかし、開校間もない学校では、校舎の整備、教員の確保、教育課程の作成、生徒募集など、多くの課題があったはずです。
県視学として学校制度を知り、師範学校教員として授業経験を持つ豊記は、学校の基礎を整えるうえで重要な役割を果たしたと考えられます。
明治43(1910)年5月21日、豊記は横浜で世を去ります。享年59。
会津藩士の子として生まれ、戊辰戦争では城に籠もり、姉を戦いで失いました。藩の敗北によって、武士として歩むはずだった人生も失われました。
刀によって仕える武士の時代から、知識によって人を育てる教育の時代へと、静かに橋を架けた歩みだったと言えるでしょう。
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