『豊臣兄弟!』わずか2歳で秀吉を天下人にした信長の嫡孫!三法師(織田秀信)が歩んだ数奇な生涯
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では今まさに、羽柴秀吉(池松壮亮)が天下取りへと大きく踏み出す激動の時代が描かれています。
1582年(天正10年)は、秀吉にとって運命の年であったと言っても過言ではなかったでしょう。
6月2日に織田信長(小栗旬)が京都・本能寺にて明智光秀(要潤)に討たれ、13日には山崎の戦いで光秀を討ち、そして27日には清州会議で信忠の長子・三法師(のちの織田秀信)を担ぐことで、天下取りへの足掛かりを掴みました。
そのように考えると秀吉が天下人となる道を開いたのは、この三法師の存在を抜きには語れません。本稿では、三法師のその後について秀吉との関係を踏まえひも解いていきましょう。
織田秀信像/滋賀県大津市聖衆来迎寺蔵、琵琶湖文化館展示(Wikipedia)
信長嫡孫・三法師を担ぎ、天下への道を開いた秀吉三法師、のちの織田秀信(おだひでのぶ)は、1580年(天正8年)に信長の嫡子で織田家の家督を継いでいた織田信忠(小関裕太)の長子として生まれました。
織田信忠。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
母は摂津の国衆・塩川長満(しおかわながみつ)の娘・徳寿院とされていますが、一説には武田信玄の娘・松姫ともいわれています。
長満は高山右近(市川知宏)・中川清秀(すがおゆうじ)とともに、光秀の与力であったものの、本能寺の変の折りにはいち早く秀吉に書状を出し畿内の様子を注進。そして山崎の戦いでは秀吉軍の先鋒として活躍した人物でした。
このように秀吉に近い立場にあることから、三法師の母は長満の娘であったと考えるのが妥当かもしれません。
本能寺の変では、三法師の父・信忠も京都二条城に留まり自刃して果てます。このとき三法師は、信忠の居城・岐阜城にいましたが、前田玄以らにより清洲城へと避難しました。
そんな三法師を担ぎ上げ、織田家における今後の方針とその後継者を決定するための清州会議に臨んだのが秀吉でした。
豊臣秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
会議に出席したのは、柴田勝家(山口馬木也)、丹羽長秀(池田鉄洋)、池田恒興(堀井新太)、そして秀吉という織田家の宿老たち。
このとき、恒興は信長の次男・信雄(山脇辰哉)、勝家は三男・信孝(結木滉星)を推しますが、秀吉は三法師を織田家の当主として擁立し、宿老たちによる後見体制を敷くことを提案しました。
清洲会議で三法師を擁する羽柴秀吉/『絵本太閤記』の挿絵(Wikipedia)
信長が生前すでに信忠に家督を譲っていたこと、そして三法師が織田家当主・信忠の嫡男だからこそ、家督相続において第一順位となるべき資格は、ほかの誰よりも優先されるということから、三法師こそ織田家の正統な後継者であると主張したのです。
ただこの時点で三法師はわずかに2歳、それゆえに宿老をはじめ信忠の弟である信雄、信孝を含めた合議制を敷くことを訴えました。
そうした秀吉の思惑が見事にはまり、会議は秀吉の意向どおりに進み、三法師が織田家の家督を継ぐことが決定します。家督相続を望んでいた信雄・信孝を後見役に据えることで、両者の不満を和らげようとしたのです。
清州会議後も続いた三法師争奪戦こうして三法師は、わずか三歳で織田家の家督を継ぎ、近江国中郡20万石を与えられました。
ただ所領に関しては、本能寺の変直前の織田領は800万石を優に超えていたということから、20万石は余りにも少ないとも言えなくもないのです。
ともあれ清州会議の取り決めにより、三法師は安土へ戻ることになりました。ところがここで、早くも会議の取り決めに破綻が生じます。
織田信孝。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
秀吉の動向を訝しんだ信孝が、勝家と共謀して三法師を岐阜城に留め置いて監視を続けたのです。おそらく信孝としては、三法師を安土に戻せば、秀吉に利用されると考えたのでしょう。
こうして秀吉と信孝・勝家は激しく対立することになります。この三法師をめぐる確執は、1583年(天正11年)4月の賤ヶ岳の合戦へと発展し、その後、勝家も信孝も秀吉の手によって葬り去られることになるのです。
織田家当主となるも、豊臣政権の一大名へ勝家・信孝の滅亡後、三法師の後見には、織田家の家督代理となった信雄が就任。しかし信雄もやがて秀吉と対立するようになります。
織田信雄。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
このころ、立場的には秀吉は信雄に臣従するという形をとっていました。しかし、信雄を傀儡として実権は秀吉が握っていることは、誰の目から見ても明らかであったのです。
このような状況のなかで信雄は徳川家康(松下洸平)と同盟を結び、小牧・長久手の戦いが起こります。だが、信雄は戦いの帰趨が定まらないうちに秀吉と単独和睦してしまいました。
天下人となった豊臣秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
そして1585年(天正13年)、秀吉は朝廷から関白宣下を受け、翌年には豊臣姓を賜り、太政大臣に任ぜられます。
こうなると秀吉と織田家の地位は、もはや完全に逆転してしまうのです。
1590年(天正18年)、秀吉は関東に覇を唱えた北条氏政・氏直(西山潤)父子を征伐し、事実上の天下統一を成し遂げます。その所領替えをめぐる問題で信雄が改易されると、すでに元服して織田秀信と名乗っていた三法師が、改めて織田宗家の当主に据えられました。
とはいえ、秀吉が天下人として君臨する世では、秀信も豊臣政権下の一大名として生きるほかなかったのです。
秀吉から厚遇された織田家嫡流の血筋1592年(文禄元年)9月、関白豊臣秀次の弟・秀勝(柊木陽太)が出兵した朝鮮の地で戦没します。すると秀吉はその遺領である美濃国13万石と岐阜城を秀信に与えました。
こうして秀信は、「岐阜中納言」と称されるようになります。岐阜城は、秀信の父・信忠が信長から任された城でした。
岐阜城。金華山の山上にある模擬天守と岐阜城資料館 (Wikipedia)
同年10月には秀吉に従い参内。このときには羽柴姓・豊臣姓を許され、従三位・中納言にも叙任されました。つまり秀吉は、信長の血を最も濃く受け継ぐこの若者を、豊臣摂関家の一員として遇していたのです。
そして秀信もまた、その厚意に応えるかのように、常に豊臣大名としての立場を貫いていきます。
しかしこのことが、その後の秀信の運命に繋がっていくことになるのです。
関ケ原の戦いで豊臣に殉じた最後の織田宗家1598年(慶長3年)、秀吉が伏見城でその波乱にとんだ63歳の生涯を閉じます。1591年からのこの8年間は、豊臣政権にはさまざまな出来事が起こりました。
朝鮮出兵はもとより、長らく秀吉を支えてきた大和大納言秀長(仲野太賀)と千利休の死。そして、秀頼の誕生と秀次の死。こうした動乱のなかで、秀信はつねに秀吉サイドにいたと考えられます。
そして1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発。秀信は豊臣家を守る立場から西軍に味方し、美濃・尾張を保つため岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦しました。
その戦い振りは凄まじく、激しい攻防のなか多くの家臣が討死し、秀信自身も自害しようとします。しかし、攻め手の池田輝政の説得で、ついに降伏しました。
徳川家康は当初は秀信を許さない方針を示すものの、福島正則(松崎優輝)が自らの武功と引き換えに助命を嘆願。しかし一命は救われたものの、美濃国13万石は改易処分となりました。
美濃を追われた秀信は、高野山での蟄居生活に入ります。そして関ケ原の戦いから5年後の1605年(慶長10年)5月、わずか26歳でその生涯を閉じました。一説には自害であったとも伝えられています。
岐阜県岐阜市円徳寺境内にある「織田秀信髪切塚」(Wikipedia)
清州会議では、幼い三法師の存在が秀吉に天下への道を開きました。そして成長した秀信は秀吉からの厚遇に応え、最後まで豊臣家への忠義を貫きました。
織田信長の嫡流(嫡孫)でありながら、それに取って代わった秀吉を恨むことなく短い生涯を全うした秀信。そこには単なる悲劇では片付けられない、貴公子らしくどこか清々しさを帯びた印象を感じられるのです。
※参考文献
黒田基樹著 『羽柴を名乗った人々』角川ソフィア文庫
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan