『豊臣兄弟!』本能寺の変“その時”織田信長の長男・信忠はどこへ?光秀「現場にいなかった説」を史実から探る
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」。第27回『本能寺の変』。
天正10年(1582)6月2日未明、まだ眠りに包まれていた京の町で、突然とどろき渡った鉄砲の音。
明け方の空を禍々しく染め上げる炎と鎧姿の大軍に驚き、「何事か!」と現場近くにかけつけた人々も多かったでしょう。
「織田信長、討たれる」。
この衝撃的な異変は人々の口から口へとあっという間に広まりました。
“そのとき”……織田家の当主で信長の長男・織田信忠も父とともに京都にいましたが、第27回では登場しませんでした。
信忠は、異変の知らせを受け、宿泊先だった京都・妙覚寺から二条新御所に移動。そこで最期を迎えました。このことは、織田政権にとっては大きな致命傷となったのです。
そして、その致命傷を与えた首謀者・明智光秀は、“そのとき”「現場にはいなかった」説があります。
ドラマでも本能寺には光秀の姿はありませんでしたね。(信長が「お前じゃない!」といって斬ったのは光秀の幻影。別の武士でした)
“そのとき”の、信忠と光秀はどこで何をしていたのかを探ってみました。
それぞれが迎えた「その時」(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
父は本能寺、長男・信忠は妙覚寺に宿泊“そのとき”。
信長の長男で織田家の当主・織田信忠(小関裕太)は、「京都の妙覚寺」にいました。
信忠は父・信長(小栗旬)とともに、備中高松城を包囲中の羽柴秀吉(池松壮亮)への援軍に向かうべく、妙覚寺に滞在していたのです。信長が京都に訪れたのは20回ほどですが、そのうち18回はここを利用したとか。
寺の19世日饒上人は、濃姫の父・斎藤道三の子であった縁からだそうです。
また、一向宗(浄土真宗)や比叡山(天台宗)と対立していたため、対抗できるだけの力のある日蓮宗寺院である妙覚寺を選んだ……という側面もあるそう。
信忠は、「明智軍の本能寺襲撃」の知らせを聞き、すぐに本能寺に援軍に駆けつけようとしました。
ところが、妙覚寺を出発しようとしたところ、家臣の村井貞勝父子が「本能寺は焼け落ちた。」という知らせをもたらします。
さらに、「こちら(妙覚寺)にも攻めてくるので、構えも堅固で立てこもるには最適な二条新御所(二条城)に移られるよう」と進言。
「いやいや、安土城に戻るように」と進める家臣もいたものの、信忠は、二条城に移動します。
「このような謀反を起こすほどゆえ、やすやすと逃がしはしないだろう。逃げたうえに雑兵の手により殺されてはのちのちまでの織田家の恥。二条新御所にて腹を切る」といったそうです。(『信長公記』)
「その時」妙覚寺から二条城に移った織田信忠。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
見事な戦いぶりを見せた信忠信忠は、二条新御所ではどのような行動を取ったのでしょうか。
「織田家の当主として最後まで勇敢に戦った」……と記述している過去の史料がいくつかあります。
▪️「世子(信忠)はきわめて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多勢の軍勢が勝って(邸内に)入り、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他身分のある武士や兵士たちもともに同じ最期を辿った」(ルイス・フロイス『日本史』)
▪️「最期を悟った信忠は、一番に切って出て向かってくる敵兵17、18人を切り伏せた。」(『総見院殿追善記』)
▪️「光秀軍から、屈強の兵数人が名乗って引き返し切って掛かってきた。これを見た信忠は、その真ん中に切って入り、常日頃から稽古していた兵法、古流・当流、秘伝の術、英傑一太刀までも奥儀を尽くして切り廻り、孫十郎を薙ぎ伏せ、清次、三右衛門の首を丁々と打ち落とした。」(『総見院殿追善記』)
しかしながら、「もはこれまで」と悟った信忠は、家臣の鎌田新介に切腹時の介錯を頼み、「切腹後、縁の板を外してその中へ遺骸を隠すよう」に指示して、26歳の最期を迎えました。
「此附近 二条殿址」の碑(京都市中京区両替町通御池上る東側)wiki
江戸時代・公家の文書に記された信忠の最期近年、本能寺の変ののち、公家が天皇に語った体験談を記した文書が、旧公爵近衛家の史料を所蔵する『陽明文庫』(※)で見つかっています。
その史料によると、妙心寺から二条御新造に移動した信忠が籠城するため、雅朝王が誠仁親王らを逃がしたときのこと。
「かゝるふうんにあふはちからなし」
「神めい仏た御まもりおはしまして、つゝかなく内裏へ還御なしまいらさせ給へ」
信忠は、「このような不運にあったのは力ないことだ」「神や仏が親王をお守りくださって、つつがなく内裏にお戻りなさるように」と伝えたといいます。
また、親王が御所をでるときは、明智側の兵士たちも皆頭を垂れたことなども記されているそうです。
100年前後たった文書で真偽のほどは不明ですが、江戸時代の公家社会でも本能寺の変は大変注目されていたことがわかります。
※陽明文庫:旧公爵近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、古美術工芸品などを一括して保存管理する歴史資料館。(京都市右京区宇多野上ノ谷町)
安土城完成。勢揃いする織田ファミリー。(NHK「豊臣兄弟!」公式サイトより)
本能寺にはいなかった明智光秀“そのとき”。
明智光秀(要潤)は6月2日未明、どこにいたのでしょうか。
「豊臣兄弟!」第27回のラストの紀行では、「光秀は実は本能寺にいなかった」とする『乙夜之書物(おとぎのしょもつ)』を取り上げていました。
この書物では、「光秀は本能寺襲撃の際には、京都の南・鳥羽にいた」と記されています。
鳥羽と本能寺は約7kmほど離れています。車だと約30分ほどかかる距離。なぜ、現場にはいなかったのでしょうか。
この史料『乙夜之書物』を記したのは「関屋政春(せきや・まさはる)」(慶長20年(1615年)生まれ)。加賀藩の「前田家」の家臣で、戦術や武士のあり方などを学ぶ兵学者でもあった人物です。
この『乙夜之書物』は、「実際に本能寺で戦った人物の証言」をもとに書かれているそう。
「伝聞」ではあるものの、「町の噂で」とか「知り合いの、知り合いの……そのまた知り合いから何となく聞いた」という話ではありません。
当事者から著者の関屋政春までに間に入った人間が少ないので、「信ぴょう性があるのでは」と評価されているそうです。
「そのとき」は、実は鳥羽にいたという明智光秀。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
光秀は鳥羽にいた「光秀ハ 鳥羽ニ ヒカエタリ(光秀は鳥羽に控えたり)」
『乙夜之書物』にある記述。つまり光秀は本能寺には行かずに、本能寺から南に7kmちょっと先の「鳥羽」で控えていたということです。
一方、信長がいる本能寺へは、重臣の「明知弥平次」(明智秀満)と「斎藤内蔵助」(利三)が「弐千余騎」を率いて攻め寄せたと記しています。
ドラマの中でも、本能寺で「狙うのは信長ただ一人。必ず見つけ出せ!」と指揮を出したのは斎藤利三(内藤剛志)でしたね。
本能寺を約13,000人の明智軍が問い囲んで襲撃したときに、真っ先に突入したのが斎藤利三だったともいわれています。
また、当時の公家の日記には「日向守内斎藤蔵助、今度謀反随一也」という一文が残されているそうです。
この文は、「このたびの謀反の張本人は斎藤利三」という意味と、「このたびの謀反でもっとも手柄をあげたのは斎藤利三」という意味の二通りの解釈があります。
ドラマ内では、炎に包まれた寺の中で「お覚悟を」と信長の目の前に光秀が現れました。信長は、「お前じゃない」と斬り捨てましたが、それは幻影。この「現場にはいなかった説」を採用したからでしょうか。
『乙夜之書物』によると、「光秀は鳥羽にいた」説の証言は斎藤利三の三男・斎藤利宗だそうです。
「本能寺の変」や「山崎の戦い」にも参戦した利宗から「本能寺の変」の「物語」を聞いた甥・井上清左衛門が、それを関屋政春に話した……とのことです。
「そのとき」本能寺でまっさきに司令を出していたという斎藤利山。(NHK「豊臣兄弟!」公式「X」より)
信長を打ち損じた場合に「退路」を断つため?「光秀ハ鳥羽ニヒカエテ」。
鳥羽にいた光秀は「朝本能寺の方角を見て、火の手が上がったことを確認し『すわ!本能寺は落ちたぞ!続け者ども!』と駆け出し、次はすでに家督を継いでいた織田信忠を討つために、妙覚寺へ急いだ……」という記述もあるそうです。
さらに、二条新御所に移った信忠を攻めた際は「鳥羽より二里を急いできたために、歩兵は間に合わないままに戦闘に突入したというようなことも記されているそう。
二里というと「一里=約3.9km」の二倍なので、約7.8km。車だと約25分ほどの距離ですが徒歩では約2時間ほどかかるようです。
なぜ、光秀は本能寺にはおらずに鳥羽にいたのか?の理由については『乙夜之書物』に記述はないよう。
けれども、「もし、本能寺で信長を討ち損じた場合、四国討伐のために軍を率いて大阪にいた三男・織田信孝(と、共にいた丹羽長秀)のもとに逃げるかもしれない。その時に通り道となる鳥羽に控えていた」という推測がされています。
『乙夜之書物』は、時の権力者におもねる目的ではなく兵法家による内密の覚え書きというところが注目されました。人数が少ないとはいえ伝聞ではあり、本能寺の変から約90年近く経たもので、一次史料とはされていませんが、非常に興味深いですね。
最後に…さて、織田家信忠と明智光秀の“そのとき”と、京都・大徳寺で行われた壮大な信長の葬儀、信忠、光秀の最期はどのように描かれていくのでしょうか。
そして、今後誕生する「豊臣政権」までのプロセスは……目まぐるしいスピードで進んでいく今後の展開が楽しみですね。
参考:
明智光秀と斎藤利三 桐野作人
石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世 浅利尚民
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