『豊臣兄弟!』秀吉に溺愛されながら最後は家族と生き別れ…養女・豪姫の悲劇の生涯
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第27話「本能寺の変」でとうとう織田信長(小栗旬)が姿を消してしまいました。
燃え盛る炎の中で、信長の脳裏には走馬灯のように、弟・信勝(中沢元紀)をはじめ、これまでに殺めた者たちの幻影が浮かんでは消えていきます。
そして最後に浮かんだのは、豊臣秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)の兄弟でした。自分が果たせなかった兄弟の絆を二人の姿に見た信長は、「是非におよばず」の言葉を残して切腹して果てます。
本能寺で炎に包まれる信長。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
ここからドラマいよいよ後編戦、豊臣兄弟の怒涛の天下取りへと進んでいくのでしょう。
その最初の難関が、信長を討った明智光秀(要潤)との山崎の戦い、織田家当主を決める清洲会議、そして「鬼柴田」と恐れられた織田家最古参の重臣・柴田勝家(山口馬木也)との賤ヶ岳の戦いでした。
この賤ヶ岳の戦いは、秀吉にとって大切な二人の人間を相手にする、精神的にもつらい戦いといえます。一人は勝家に嫁いだお市の方(宮﨑あおい)、そしてもう一人は勝家の与力大名であり、秀吉が小者時代から誼を通じていた前田利家(大東駿介)です。
秀吉は利家からは、養女として豪姫をもらい受けていました。本稿では、数いる養子・養女の中でも、秀吉が最も愛したといわれるその「豪姫」について触れていきます。
※関連記事:
300人もの側室を抱えた豊臣秀吉が親バカぶりを発揮した愛娘・豪姫の正体とは? 豪姫の出生と養女となった時期はいつか豪姫は1574年(天正2年)、前田利家の四女として、前田家の本拠地である尾張国荒子城(名古屋市中川区)に生まれました。生母は利家の正室・まつ(芳春院/菅井友香)です。
定説では、生まれた翌年ないし2年後に、子どものいなかった秀吉と寧々(北政所/浜辺美波)の養女となり、二人から寵愛されたとされます。
しかしこれには諸説あり、九州大学教授の福田千鶴氏は、1583年(天正11年)説を唱えています。
賤ヶ岳の戦いののち、勝家の北ノ庄城を攻めるため、利家の越前府中城に進出した秀吉と利家が和睦・臣従した際に、豪姫を養女として迎えたという説です。
前田利家。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
この説の根拠として、前田家家臣・村井重頼の『村井重頼覚書』に、「御息女(利家の娘・豪姫)を養女とし、浮田八郎(宇喜多秀家)を婿にせん」と約束したとあること、また、それ以前の秀吉の書状に豪姫の名が見られないことなどが挙げられています。
豪姫が秀吉夫妻の養女となった年については、現在も定説が定まっていません。しかし、養女となった時期がいつであれ、秀吉が豪姫を実子同然にかわいがったことは間違いないのです。
天下人となった豊臣秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
天下人となった秀吉は、北政所への手紙の中で「もし、豪が男であったら、関白にしたいものを」と書いています。
この言葉からも、秀吉が豪姫をどれほど愛していたのかがうかがえるでしょう。
1588年(天正16年)、豪姫は15歳で岡山城主の宇喜多秀家に嫁ぎます。
秀家は、備前に覇を唱えた宇喜多直家(緋田康人)の嫡男です。直家は中国方面の司令官であった秀吉とも深い関係にありました。
直家は1582年(天正10年)頃に病死したとされ、秀家はそれからまもなく秀吉の猶子に迎えられ、寧々のもとで豪姫とともに養育されました。つまり、豪姫と秀家は幼馴染の関係だったのです。
二人の結婚は、天下人・豊臣秀吉の肝いりによる政略結婚でした。しかし同時に幼い頃からともに育った二人の結婚でもあり、そこに彼らに対しての秀吉と北政所の思いが感じられるです。
寧々(北政所)。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
豪姫と秀家の夫婦仲はよかったと思われ、秀家が側室を置いたことを示す確かな記録もありません。二人の間には、男子の秀高・秀継、女子の理松院・冨利の二男二女が生まれました。
しかし、豪姫は出産のたびに体調を崩したといわれています。心配した秀吉がその原因を探らせたところ、「狐が憑いている」と言われました。
豊臣秀吉。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
これを聞いた秀吉は伏見稲荷に対して「豪姫から出て行かないのなら、日本中の狐を皆殺しにする」という趣旨の手紙を書き送ったと伝えられています。
それほどまでに、秀吉の豪姫に対する愛情は深かったのです。秀吉はその後も豪姫を「五もじ」と呼び、かわいがったと伝わります。
関ヶ原の敗北で引き裂かれた豪姫と秀家秀吉の晩年、秀家は徳川家康(松下洸平 )や前田利家と並ぶ五大老に就任します。
しかし、豪姫と秀家に決別の時が訪れました。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで秀家は西軍の副大将として1万7千の主力部隊を率いて参戦します。この決戦で、福島正則(松崎優輝)勢と激戦を繰り広げたものの、同じ豊臣一門の小早川秀秋の裏切りによって、宇喜多勢は壊滅してしまいました。
秀家はなんとか戦場を離脱して逃亡し、薩摩の島津家に匿われます。しかし、薩摩潜伏が露呈すると、1602年(慶長7年)、秀家は豪姫との二人の男子である秀高・秀継とともに、八丈島へ流罪となりました。秀家はその後、八丈島で長い歳月を生き、1655年(明暦元年)に83歳で生涯を閉じています。
一方、豪姫は宇喜多家改易後、出家して高台院となっていた北政所に仕えていました。その後、1607年(慶長12年)にキリシタンの洗礼を受け、金沢へ帰ります。
西軍の副大将であった秀家が助命されたのは、一説には、豪姫の実家である前田家当主・前田利長(利家嫡男)、さらには豪姫の母・まつによる懸命な助命嘆願があったためともいわれています。
まつ。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。🄫NHK
しかし豪姫は秀家および二人の息子と、ついに再会を果たすことはありませんでした。彼女は1634年(寛永11年)5月、61歳で生涯を閉じます。
その墓所は、金沢・野田山墓地にある前田家墓所のほか、前田家の菩提寺である大蓮寺、高野山奥之院にある豊臣家墓所にもひっそりと建っています。
秀吉にもっとも愛された養女・豪姫。天下人の養女として華やかな人生を歩みながらも、最後には戦乱によって愛する夫と息子たちと引き裂かれてしまいます。
その生涯は、安土桃山時代の栄華と悲劇を、同時に物語っているのではないでしょうか。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
