ブラタモリで注目!徳川家康はなぜ大須観音を名古屋へ移したのか?「清洲越し」と城下町建設の真実
NHK「ブラタモリ」で、大須の名古屋移転について取り上げられました。
名古屋を代表する繁華街・大須は、もともと現在の場所にあった町ではありません。ただし、徳川家康が町全体を移したわけでもありません。
慶長17(1612)年、家康の命によって現在の岐阜県羽島市付近から移されたのは、大須観音と呼ばれる真福寺宝生院、そして同寺が守っていた貴重な古典籍でした。その後、寺の周辺が門前町として発展し、「大須」の名が名古屋に定着したのです。
この移転は、名古屋城の築城と「清洲越し」が進められた時期に重なります。しかし、大須観音は清須からではなく美濃国から移されたため、厳密には清洲越しそのものではありません。名古屋という新しい城下町を一から形づくる、大規模な都市建設の一部として捉えるのが適切でしょう。
この移転は、当時の人々に何をもたらし、名古屋の町をどのように動かしたのでしょうか。史実としての大須観音移転と清洲越しについて見ていきましょう。
清須に代わる新しい尾張の中心地江戸時代初めまで、尾張の政治・経済の中心は清須でした。清須城は織田信長ゆかりの城であり、その城下には多くの武士や商人、職人が暮らしていましたといいます。
しかし、清須城は城域が手狭で、水攻めにも弱いと考えられていました。
そこで家康は慶長15(1610)年、比較的高い名古屋台地の北西端に名古屋城を築城。清須の城下を町ごと移す政策を進めます。
これが「清洲越し」です。新しい名古屋は海陸の連絡にも便利で、堀川を通じて米や塩、木材などを船で運び込むことができました。
家康は城だけでなく、城下町全体を計画しました。
城の南側には、道路を碁盤の目のように区切った町人地「碁盤割」を設置。その東と南に武家地、さらに外側には寺町を配置しています。
慶長18(1613)年ごろには、武士や町人の居住地も定まり、現在の名古屋中心部につながる町の骨格が整いました。
清須城。織田信長の居城であり、かつては尾張国の中心であった。
美濃の大須から移された観音と文庫大須観音の由来とその後について見てみましょう。
大須観音の正式名称は、北野山真福寺宝生院です。その起源は、尾張国中島郡長岡庄大須村、現在の岐阜県羽島市付近にあった観音堂に求められます。
14世紀ごろには能信上人が堂塔を整備し、各地の書物を書写・収集しました。これが後の「大須文庫」の基礎となります。
ところが、旧所在地は木曽三川に近く、水害を受けやすい地域でした。名古屋市の歴史的風致に関する資料では、家康が貴重な書籍や文書を木曽川の水害から守るため、慶長17(1612)年に真福寺を名古屋城下へ移したと説明されています。
大須文庫には、国宝の『古事記』写本など約1万5000点の典籍が伝わっています。寺院の移転は、信仰の場を移すだけでなく、中世以来蓄積されてきた「知」を安全な新都市へ運び込む事業でもありました。
大須観音が置かれたのは、名古屋城下の南側に形成された寺町でした。現在の大須周辺には多くの寺社が集められ、その中で大須観音は参詣者を集める中心の一つとなります。
参詣者が増えれば、食べ物や日用品を売る店、宿、見世物なども必要になります。
こうして周辺は門前町として発展し、寺の旧所在地に由来する「大須」という名で呼ばれるようになりました。
後の時代には芝居や芸能も栄え、信仰と商業、娯楽が交わる町へと成長していきます。
清洲越しによって名古屋へ運ばれたのは、建物や家財だけではありませんでした。武士の統治機構、商人や職人の技術、寺社の祭礼、地域の記憶までが、新しい城下町へ移されました。
一方、大須観音の移転は、清須以外の地域からも文化的な資源を集め、名古屋を政治だけでなく、信仰や学問の中心にしようとした都市づくりの一面を示しています。家康が大須観音を移した理由は、水害から寺宝を守ることと、新しい城下町に寺町の核を置くことが重なっていたと考えられます。
現在の大須のにぎわいは、慶長年間に運ばれた一つの寺院から始まりました。名古屋の町は、城や道路だけでなく、人々の信仰と知識まで移すことで形づくられたのです。
真福寺宝生院。大須観音で知られる。出典ウィキペディア(著者
Tomio344456)
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