究極の自己犠牲!戦国時代の忠義「将替(しょうがわり)」とは?主君の身代わりとなり命を捧げた武士たち
血で血を洗う戦場において、武勇を発揮することは何より名誉とされました。
例えば真っ先に敵人へ突入する一番駆けや、同じく敵の首級を上げる一番首、あるいは退却に際して敵の追撃を食い止める殿軍(しんがり)等々が挙げられます。
そんな中、将替(しょうがわり)という行為がありました。こちらも大変な名誉とされましたが、一体どういうものでしょうか。
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将替について、要門流の軍学書『武門要鑑抄』ではこのように説明しています。
……大切の場にて大将の諱を許され、敵を押して大将を恙なく除け申す儀、尤弓矢の面目なり……
【意訳】ここ一番という場面で大将の諱を名乗ることを許され、敵を食い止めて大将を無事に逃がすことを言う。これは武士にとって、大変な名誉である。
ここで言う大切の場とは、大将の命がかかっている状況を指します。
諱(いみな)とは実名、昔は名を直接呼ぶことを忌みはばかられたことから忌み名転じて諱と呼ばれました。
大将に代わって諱を名乗り、敵に乗り込んでいくというのは、要するに大将の身代わりを買って出ることです。
その間に本物の大将は命からがら逃げ延びる……そんな極限状況を想定しているのでしょう。
……大将の命に代るの忠功……
※風山流軍学書『経権堤要』
畏れ多くも大将の諱を名乗り、命を捧げてお守りする。そんな自己犠牲の忠義を象徴する振る舞いこそ、この将替でした。
一時的に「将を替わる」から将替と言うのですね。
将替の事例〜南北朝以前〜
「弓矢の面目」とされた将替は、あちこちの合戦で行われてきました。
例えば『義経記』では佐藤忠信が源義経を逃がすために「我こそ義経なり」と名乗って敵を食い止め、また『太平記』では村上義光(よしてる)が大塔宮護良親王(おおとうのみや もりながしんのう)に代わって切腹した事例が伝えられています。
また同じ『太平記』では上山六郎左衛門が高師直の甲冑を着て身代わりとなる事例もありました。
ただ大将の諱を名乗るだけでなく、切腹してみせたり、甲冑を着たりなど渾身の演出が図られたようです。
彼らの献身的活躍によって大将はその場を逃げ延び、捲土重来を期したことでしょう。
将替の事例〜戦国時代〜
歌川芳員「太平記長嶋合戦」より、金御幣の馬印を持って奮戦する免受宗助家照(毛受勝照)。
家臣が主君の身代わりを買って出る将替は、戦国時代においても行われていました。
例えば中国地方の覇者となった毛利元就は、天文12年(1543年)に敗走する際、家臣の渡辺通が元就の甲冑を着て討死しました。
また元亀3年(1572年)に三方ヶ原の合戦で敗れた徳川家康の身代わりとして、数名の家臣が身代わりを買って出ています。
家康の甲冑を着て迫りくる武田軍に突入した松井忠次や、同じく采配を奪い取った鈴木久三郎などの逸話は有名でしょう。
彼らは生還を果たした一方、夏目次郎左衛門は壮絶な最期を遂げました。
後世「家康の三大危機」に数えられたと三方ヶ原の合戦では多くの家臣が将替を行っていますが、これは家康の人徳をアピールする創作の可能性も指摘されています。
他にも天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦では、毛受勝照(めんじゅ かつてる)が金御幣の馬印を借り受けて、柴田勝家の身代わりに羽柴秀吉の軍勢へ斬り込みました。
そして天下分け目の関ヶ原合戦では、島津義弘の身代わりとして、島津豊久や阿多盛淳らが迫り来る十数万の東軍を食い止めて討死します。
彼らは主君の無事を願い、そして再起を果たす日を確信しながら戦場に散華したことでしょう。
終わりに今回は「将替」について、その意味や事例を紹介してきました。
一時かつ命と引き換えではあっても、大将を名乗れることは、武士として大変な名誉であったことでしょう。
これからも武士たちの精神にふれ、その生き様を紹介していきたいです。
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